もはや、誰にも止められない恐慌状態になっていたのです。 いろんな書物の中からイメージできる彼の特徴は、すごく頭が良くてクソ真面目、本気でルソーの万民平等を願っていた高潔の士、ユーモアが分からないおもしろ味のない人です。 「オレが毎晩、ベッドで妻を相手にしている【徳】ほどしっかりした【徳】はないだろうさ♪」 フランス革命でも、太平洋戦争でも、今のコロナパンデミックでも、それらを起こし世界を裏側から誘導していた(いる)とされる隠れた首謀者たちです。 ・1781年(23歳) フランス革命からナポレオンの台頭ヘ 1 の続きです1792年のフランスのオーストリアへの戦線布告に伴い、プロイセン、イギリス、スペインなどが、対仏大同盟を結び、フランス革命に干渉を始めます(第一次)。これに、コンデ将軍率いるフランス亡命貴族軍が加わります。 ↓ 恐怖政治はあたかもロベスピエール1人の仕業のように思われがちですが、清廉潔白だったという当時の評価は割りと正しいものだと思います。 そして、フランス革命前夜のフランスの民衆の苦しみを上回る「圧政」「言論弾圧」「人権侵害」と「情報遮断」が行われているようです。 北朝鮮を「正常化」する唯一の方法は、「民衆蜂起」による金王朝の「独裁・恐怖政治体制」の打倒だと思います。 独立に成功したアメリカ合衆国や、産業革命直前のイギリスが近代へと向かう中、フランスはブルボン朝による絶対君主制が依然として続いていた。ルイ14世から続く戦費による借金、ルイ15世治世期のバブル崩壊、アメリカ独立戦争への関与によって、フランスは見るも無残な赤字経済を辿っていく。 国民は、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民、といった具合で区別されていた。第一・第二の身分は免税や大土地所有権、加えてすべての要職を掌握し、年金まで支給された。これらだけ … フランス革命についての省察 原タイトル Reflections on the Revolution in France エドマンド・バーク/著 中野好之/訳 出版者 岩波書店 2000.7, 8 1.概要 フランス革命への批判がなされていて、保守主義の聖典といわれてい ます。 『省察』は私的書簡という形式で書かれており… しかし、周りの国々との戦争が好転して国内危機が収まってきた1794年7月27日(革命暦II年テルミドール9日)、ロベスピエール一派は反ロベスピエール派に逮捕されたのです。これが「テルミドール9日のクーデタ」と呼ばれる事件です。 くの学者がこの問いについて論じた。しかし、多 岐に渡る研究の成果がフランス革命の全体像の把 握を一層困難にしている。そのうえ、世界史を教 える我々教員は先述の問いに加えて、非常に複雑 である「フランス革命を高校生にどう教えるか? フランス革命との違い なお、近藤氏は同書において、ピューリタン革命とフランス革命を比較し、次の三点の違いを指摘している。 国王裁判と処刑 イギリスでは1649年、国王裁判、処刑のあと、三月に王政・貴族院の廃止、五月に共和制が宣言された。 フランス革命(フランスかくめい、仏: Révolution française, 英: French Revolution 1789年 7月14日 – 1795年 8月22日)とは、フランスにおいて、領地所有の上に立つ貴族と高級聖職者が権力を独占していた状況が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化をいう。 フランス革命関連人物一覧とは?goo Wikipedia (ウィキペディア) 。出典:Wikipedia(ウィキペディア)フリー百科事典。 1755年11月2日、マリー・アントワネットはオーストリア・ウィーンでオーストリア大公マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世との間に誕生しました。 母マリア・テレジアは神聖ローマ皇帝カール6世の娘でしたが、彼は息子に恵まれず、女性であるマリア・テレジアが王位を継承しています。この時戦争が起こるほど揉めたこともあって、子供は多ければ多いほど良い。と考えていたと思われます。そのため、マリー・アントワネットには16人の兄弟がいました。(内6名は夭折) 末っ子という … フランス革命を起こした、実行した首謀者は誰でしょうか。 世界史 フランス革命において、人々が“社会”を意識するようになったと本で読みました。 フランス革命中、1791年6月、国民議会で可決され、労働者の団結禁止を目的とした法。議員で主唱者のル・シャプリエIsaac René Guy Le Chapelier(1754―94)の名でよばれるが、正式には「同一の身分、職業の労働者および職人の集合に関する法」という。 フランス革命中、1791年6月、国民議会で可決され、労働者の団結禁止を目的とした法。議員で主唱者のル・シャプリエIsaac René Guy Le Chapelier(1754―94)の名でよばれるが、正式には「同一の身分、職業の労働者および職人の集合に関する法」という。 ※フランス革命全体の年表はこちらです。合わせてどうぞ♪ フランス時間で7月14日の夜、日本では15日の朝の情報番組の時間帯に。テロか?というニュースが入ってきた。花火見物客の人々の列に、トラックが突っ込んで暴走した… フランス革命からナポレオンの台頭ヘ 1 の続きです1792年のフランスのオーストリアへの戦線布告に伴い、プロイセン、イギリス、スペインなどが、対仏大同盟を結び、フランス革命に干渉を始めます(第一次)。これに、コンデ将軍率いるフランス亡命貴族軍が加わります。 「パリ・コミューン」代表として立法議会と対立。 ジャコバンクラブには超美形大天使・サン=ジュストがいるので、イケメンキャラは彼に持っていかれてます。, 1758年(0歳) アルトワ州高等法院の弁護士に。 フランス革命期の国民公会による第一共和政以来。 臨時政府樹立. ギロチンで処刑。 1789年に勃発し、市民革命の代表例として世界史にその名を刻んだ「フランス革命」。しかし直後の1790年に革命に対して大批判を展開し、各国首脳から酷評の嵐となった書があった。 反対する者たちは、形ばかりの「革命裁判」にかけられ、どんどんギロチン送りになりました。 フーシェはナントという港町近くの、ル・ペルランで生まれました。 父親は船乗りで、息子であるフーシェも船乗りにしようと思ったのですが、体が弱く、すぐに船酔いするため、息子を船乗りにするのは諦めました。 そこでフーシェは、オラトリオ教団というカトリック系の寄宿修道会に入れられ、勉学に励むこととなります。 彼はそこで才能を見出され、20歳から教団所属の学校で、数学や物理を教える教師となりました。 給料は少なかったものの、彼はここで10年間教師として過ごします。 しか … スクラップ&ビルドの革命から生まれた皇帝ナポレオンこそが絶対王政の解体者だったページです。革命から生まれた皇帝ナポレオンこそが絶対王政の解体者だった古今東西さまざまな英雄がいますが、ナポレオン・ボナパルトの名前が挙がらないことはまずないでしょう。 ナポレオンすら恐れ、フランス革命の動乱期を生き抜き、船乗りの息子から位人臣を極め、警察大臣、元老院議員、オトラント公爵へと上り詰めた政治家。「政界のカメレオン」「サン=クルーの風見鶏」「リヨンの霰弾乱殺者」「革命のユダ」などの様々な二つ名が 4、原爆投下命令者、ケネディ暗殺命令者、911、311の首謀者を推定する ・数百年まえから秘密結社がとりまくこの世界のすがたにだれも気がつかなかった. 揺るぐことのない正義の人で天才的な頭脳を持つ人で、ついでに実行力もある人でした。 勉強を続け法律や思想を読みふけった彼は、だんだんルソーの啓蒙思想に傾倒していきます。 ここから、フランス革命の「血の粛清」がどんどん加速していきました。 フランス革命(フランスかくめい、仏: Révolution française, 英: French Revolution 1789年 7月14日 – 1795年 8月22日)とは、フランスにおいて、領地所有の上に立つ貴族と高級聖職者が権力を独占していた状況が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化をいう。 こうしたフランス革命の捉え方は、多くのイギリスの急進主義者やジェームズ・マッキントッシュも抱いていた。 マッキントッシュの『フランスの擁護』(1791)が強く支持していたのは、ペイン、フランス、古代から商業社会に到る歴史の4段階発展モデルであった(Mackintosh,1791; McKenzie,1986)。 ?ベルサイユ宮殿は「おまる」持参だった, グリム童話「赤ずきん」のあらすじを簡単に!ペロー童話との違いは?オオカミは「男」の隠語だった, 「人魚姫」アンデルセン童話のあらすじを簡単に★最後は海の泡に!原作は切ない悲劇だった, ロベスピエールとは?(年表付き)恐怖政治の首謀者!でも始めは「清廉な人」な人だった?. 革命政府は『敵』と疑われる者に対しては、身分を問わず厳しい措置をとりました。フランスを恐怖で支配したロベスピエールの治世は『恐怖政治』とも呼ばれています。この記事では、国王ルイ16世が処刑され、革命政府が主導権を握った時代の『恐怖政治』をみていきたいとおもいます。 「国王処刑」要求の演説。(12月) 私はロベスピエールはマリーアントワネットと同じく、世論に「ヒール役」を押し付けられた人だと思っています。 その後、パリ市民の支持を得て、1793年6月2日には「国民公会」からジロンド派を追放してジャコバン山岳派の独裁へ進みました。 パリ大学で法学修士号と弁護士資格を取った後、ロベスピエールは一旦、地元に帰って弁護士事務所を開業しました。 事件の首謀者はロアンで、自分の名前をかたって宝石を騙し取ったに違いないとルイ16世に訴え、ロアンは宮廷の鏡の間で逮捕され、裁判にかけられることになりました。 この事件には、フランス中が沸き … では、まずはロベスピエールがどんな人だったのか、お伝えします。, マクシミリアン・ロベスピエールは、フランス北部アルトワ州(パ=ド=カレー県)出身で、平民(第三身分)の息子として生まれました。 事件の首謀者はロアンで、自分の名前をかたって宝石を騙し取ったに違いないとルイ16世に訴え、ロアンは宮廷の鏡の間で逮捕され、裁判にかけられることになりました。 この事件には、フランス中が沸き … リヨンの反乱(リヨンのはんらん, 仏: Siège de Lyon )は、フランス革命期の1793年、パリの革命政府に対して王党派と穏健共和派が起こしたリヨンでの反革命反乱である。 ジロンド派と関係する連邦主義の反乱の一つとされる。 革命政府はこれを徹底的に弾圧し、リヨンの大虐殺を引き起こした。 ・1792年(34歳) フランス革命直前までバスティーユ牢獄に収監 サディズムの語源として知られる、猟奇的小説家: アントワーヌ・ラヴォアジエ: 1743年 - 1794年 - 化学者として、質量保存の法則の発見など業績多数 恐怖政治期、徴税吏であったことを理由に処刑: スタール夫人 ここを統治するロベスピエール全権代理のサンタンドレは、カリエをその過激思想故に解任する。ブイイの画策が功を奏して伯爵は釈放されることになった。しかし、それを恨みに思ったカリエは、反革命首謀者として伯爵を暗殺しようと企てる。 今回は、フランス革命がエスカレートしていく段階で、完全に悪役にされているロベスピエールについてお伝えします。少しロベスピエールを擁護してます。 フランス革命は、国王夫妻の処刑後、戦争(対仏大同盟)と内乱、経済の停滞で、国がめちゃくちゃになり、政治がパニック状態に陥りました。 フランス人なのに実直で潔癖、それでもともと革命の同志だった「快楽の追求者」ダントンとよく比べられます。 ・1793年(35歳) 1793年は1月21日に国王ルイ16世が、10月16日には王妃マリーアントワネットが処刑された年です。 7月28日 生真面目一辺倒のロベスピエールは、プンプン怒って立ち去ったそうですよ。, ロベスピエールの政治家としての思想は、「徳」と「恐怖」で説明されます。 小泉進次郎氏みたいな感じでしょうか・・・? Amazonで池田 理代子のフランス革命の女たち (とんぼの本)。アマゾンならポイント還元本が多数。池田 理代子作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またフランス革命の女たち (とんぼの本)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 フランス革命の証言となる名作を数多く残した画家兼革命家(?) ... 短い間に書き上げたデッサンだが、王妃の威厳と深い悲しみが込められていて見る者 ... テルミドールの反動の首謀者. フランス革命でも、太平洋戦争でも、今のコロナパンデミックでも、それらを起こし世界を裏側から誘導していた(いる)とされる隠れた首謀者たちです。 ・1764年(6歳) それからの彼は、政界でジャコバン派内の山岳派(ジャコバンクラブ)に属し、ジロンド派内閣が推進した対外戦争に反対しました。 いままでフランス革命以来の大きな世界的事件の首謀者があきらかにされることはなかった。 フランス革命と言えば、フランス国民によって1789年に起き、当時の国王夫妻・ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されたもの、というイメージではありませんか?「ベルサイユのばら」で知った方も多いかもしれません。 確かにそのイメージも… この事件の首謀者は、33歳の若き政治家ダントンだった。 ダントンは、若くして王室顧問会議付き弁護士に就任した英才で、革命勃発後はコルドリエ・クラブなどを結成、民衆の広い支持を集めていた。 ↓, 「マリーアントワネットのトイレ・入浴事情にドン引き! 4、原爆投下命令者、ケネディ暗殺命令者、911、311の首謀者を推定する ・数百年まえから秘密結社がとりまくこの世界のすがたにだれも気がつかなかった. フランス革命(フランスかくめい、仏: Révolution française, 英: French Revolution 1789年 7月14日 – 1795年 8月22日)とは、フランスにおいて、領地所有の上に立つ貴族と高級聖職者が権力を独占していた状況が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化をいう。 「三部会」のアルトワ州第三身分代表として、彼は再びパリに戻ったのです。 ダントンはお金も女性関係も派手で、私生活はスキャンダラスな人でした。 「国民公会」パリ選出議員に そんな正義の人の演説に、バリ市民は熱狂しました。 フランス革命以前は身分は、聖職者である第一身分、貴族である第二身分、平民である第三身分、と3種類に分かれていた。(なお、このような、フランス革命前のフランスの制度のことをアンシャン=レジーム(旧制度)という。 1794年、ロベスピエールの山岳派は市民の圧倒的な支持を集め、3月に極左派のエベール派、4月に右派のダントン派を粛清して、彼が理想とする共和制樹立を目指しました。 「ジャコバン・クラブ」入会 パリのルイ大王学院入学。 ?ベルサイユ宮殿は「おまる」持参だった」, <追記> フランス革命200年の旅、中央公論社、1989。 こちらからも引用。 ※ ルイ・マドラン著「フランス革命」からの記述。 w ウィキペディアからの記述。 参考 白百合は散った ルイ十六世、大革命、ナポレオンまでの人物をイラストで紹介。 別ブログに綴っていた「世界史」の記事を、こちらに統合しました。よろしくです(*^^)v, 「フランス革命」の登場人物★マリーアントワネット・ルイ16世・子供たち・ランバル公妃など. フランス時間で7月14日の夜、日本では15日の朝の情報番組の時間帯に。テロか?というニュースが入ってきた。花火見物客の人々の列に、トラックが突っ込んで暴走した… 平民でしたが、地元アルトワでは多くの法律家(弁護士)を出した良い家柄で、祖父も父も弁護士で州の評議会委員を勤めました。 彼は代々弁護士の家系で、本人も弱者の味方の弁護士をしていたこともあり、高潔な人でした。 フランス革命を起こした、実行した首謀者は誰でしょうか。 世界史 フランス革命において、人々が“社会”を意識するようになったと本で読みました。 フランス革命200年の旅、中央公論社、1989。 こちらからも引用。 ※ ルイ・マドラン著「フランス革命」からの記述。 w ウィキペディアからの記述。 参考 白百合は散った ルイ十六世、大革命、ナポレオンまでの人物をイラストで紹介。 「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」 フランス革命の証言となる名作を数多く残した画家兼革命家(?) ... 短い間に書き上げたデッサンだが、王妃の威厳と深い悲しみが込められていて見る者を感動させる。 ... テルミドールの反動の首謀者. →家長になる。 こんにちは。 「テルミドール9日のクーデタ」で逮捕。 ・1780年(22歳) だから、特に女性に人気が高く、彼が演説台に立つ日はパリジェンヌたちがたくさん傍聴席に集まり、熱い視線を投げかけたそうです。 フランス革命期は政権が変わるたびに、主な登場人物の人間像がブレるので、いい人だったのか悪い人だったのか分かりにくいです。 ・1789年(31歳) でも、Wikipediaの「ロベスピエール」の項目には、「史上初のテロリスト(恐怖政治家)」と載ってます。びっくりです。 ですから、真偽は不明、通説・逸話として伝わっていると思ってお付き合いください。, ロベスピエールは「悪魔」のようと評される一方、「清廉の人」というキャッチコピーのつく人でした。 実はフランス国民の中では、マリー・アントワネットこそが事件の首謀者だという根も葉もない噂が広がっていたのです。これによってマリーはいよいよ国民から毛嫌いされるようになります。 フランス革命 革命裁判にはかけられず、逮捕の翌日に死刑が執行されたのです。, ここからは、ロベスピエールに関する逸話をお伝えします。 ・1769年(11歳) 多くの人々がギロチンで処刑されましたが、そのすべてをロベスピエールが望んだわけではありません。 フランス革命(フランスかくめい、仏: Révolution française, 英: French Revolution 1789年 7月14日 – 1795年 8月22日)とは、フランスにおいて、領地所有の上に立つ貴族と高級聖職者が権力を独占していた状況が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化をいう。 父が家出。 そして、その翌28日、マクシミリアン・ロベスピエールはサン=ジュスト、ジョルジュ=クートンらとともにギロチンで処刑されました。 ダントンは酔っ払いながら、見事にそれを冗談でかわします。 自由主義共和派やルイ=ブランら社会主義者が参加して、臨時政府が樹立された。 労働委員会の委員長になったルイ=ブランは労働者よりの政策を行った。 フランス革命はロシア革命やシナ革命と殆ど同じ結果である。 つまり支配者が王から皇帝、王朝から共産党に代わっただけで 国民の大多数の貧しさ、不平等さは何ら変わらなかったのである。 弁護士の息子としてアルトワ州アラスで誕生。 かなり裕福な家庭だったのですが、ロベスピエールが幼い頃、出産が原因で母親が亡くなり、その後、身を持ち崩した父が失踪してしまいました。 革命政府は『敵』と疑われる者に対しては、身分を問わず厳しい措置をとりました。フランスを恐怖で支配したロベスピエールの治世は『恐怖政治』とも呼ばれています。この記事では、国王ルイ16世が処刑され、革命政府が主導権を握った時代の『恐怖政治』をみていきたいとおもいます。 Copyright (C) 2021 歴史スタイル All Rights Reserved. その理由は、当時の史料が書いた人の「主観」が入りまくっているからです。たとえば、マリーアントワネットは革命期は「淫らなオーストリア女」だったのが、王政復古期には「悲劇のヒロイン」扱いです。 Amazonで池田 理代子のフランス革命の女たち (とんぼの本)。アマゾンならポイント還元本が多数。池田 理代子作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またフランス革命の女たち (とんぼの本)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 こんにちは。 フランス革命の流れを、年表で見ていきましょう。年表では、政治体制を「赤字」で表していますよ。 三部会 ↓国民議会(憲法制定議会) ↓立法議会(ジロンド派) ↓国民公会(ジロンド派) ↓公安委員会独裁(ジャコバン派)... 「フランス革命」人物まとめ記事★マリーアントワネット・ルイ16世・子供たち・ラン... こんにちは! フランス革命に登場する人々について書いた記事をまとめました。主にマリーアントワネット周辺の人々についてです。 革命政府側の人々など、まだまだ増える予定です。 マリーアントワネットと周りの人々 &... ツヴァイク『マリーアントワネット』は超おすすめ★「フランス革命」を知るにはまず... こんにちは! フランス革命は、世界史の中で日本で非常に人気の高いテーマです。 いろんな人がいろんな作品を書いています。 その中で、まずはこの一冊というおすすめ本が、シュテファン・ツヴァイクの『マリーアントワネッ... 戦争(対仏大同盟)と内乱、経済の停滞で、国がめちゃくちゃになり、政治がパニック状態に, 1793年は1月21日に国王ルイ16世が、10月16日には王妃マリーアントワネットが処刑された年です。, すごく頭が良くてクソ真面目、本気でルソーの万民平等を願っていた高潔の士、ユーモアが分からないおもしろ味のない人, 前述しましたが、「恐怖政治」はロベスピエールが「やってやるぜ!」と1人で意気込んで始めたものではありません。, マリーアントワネットのトイレ・入浴事情にドン引き! イケメンだったかどうかはわかりません。肖像画を見る限りうーーんという感じですが、クリーンなイメージでモテたのでしょう。 ダントンは、ロベスピエールがいつも大真面目に語っている「徳」という言葉を、おちょくって使ったのでした。 いままでフランス革命以来の大きな世界的事件の首謀者があきらかにされることはなかった。 マクシミリアン・ロベスピエールは、フランス北部アルトワ州(パ=ド=カレー県)出身で、平民(第三身分)の息子として生まれました。 平民でしたが、地元アルトワでは多くの法律家(弁護士)を出した良い家柄で、祖父も父も弁護士で州の評議会委員を勤めました。 かなり裕福な家庭だったのですが、ロベスピエールが幼い頃、出産が原因で母親が亡くなり、その後、身を持ち崩した父が失踪してしまいました。 それで、彼 … 「フランス革命」について、これまでマリーアントワネット中心にお伝えしましたが、今回は「革命」と「フランス社会」に焦点を当ててサラッと流れをみていきます。 フランスは、太陽王ルイ4世時代に絶対王政全盛期を迎えました。 ロベスピエールは同志のそんな姿を見ていられなかったらしく、「徳」という言葉を連発して本人を非難したことがありました。 フランス革命 . そもそも「ロベスピエール=恐怖政治」というのが、おかしいです。高校世界史ではこう習いますが、フランス革命期の政治は、混乱して政局がコロコロ変わり、見方によっても見解が変わるので、複雑で簡単には説明しきれないのです。 パリ大学卒業。 「公安委員会」委員に就任。 7月27日 マリーアントワネットに「なあんて退屈な人なのかしら」とか言われそうですよ。 リヨンの反乱(リヨンのはんらん, 仏: Siège de Lyon )は、フランス革命期の1793年、パリの革命政府に対して王党派と穏健共和派が起こしたリヨンでの反革命反乱である。 ジロンド派と関係する連邦主義の反乱の一つとされる。 革命政府はこれを徹底的に弾圧し、リヨンの大虐殺を引き起こした。 政治家に転身したのは、30歳のときでした。 産業革命期フランスにおける 労働者の貧困問題 一一一ヴィレルメ調査報告の検討を中心に (251) 111 清水克洋 はじめに 1830年代フランスは,かつて知らなかった一つの重大な社会問題に直面して いた。 ナポレオンは英雄か独裁者かと問われたら私は英雄と答えますがみなさんはどちらを答えますか?ナポレオンのやったことは無駄ではないと思うんですけど..英雄とは、要するに「皆がナポレオンが英雄であると看做せば、ナポレオンは英雄」と フランス革命(フランスかくめい、仏: Révolution française, 英: French Revolution 1789年7月14日 – 1795年8月22日)とは、フランスにおいて、領地所有の上に立つ貴族と高級聖職者が権力を独占していた状況が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化をいう。ブルジョワジーは権力を握ったが、貴族を排除することなく一部の貴族とは連立を続けた。フランス革命は貴族と上層市民を対等の地位にした[2]。, フランス革命以前は国王がフランスの5分の1の領土を持つ最大領主だった。その国王のまわりで権力を組織していた宮廷貴族は国王に次ぐ大領主であり、減免税特権の最大の受益者であった。財政支出の中から宮廷貴族の有力者は、巨額の国家資金を様々な名目で手に入れた[3]。しかし、ある段階で国家財政が破綻し、もはや支払うべき財政資金がなくなった。権力を握っていた宮廷貴族は自分の減免税特権を温存し、ブルジョアジー以下の国民各層に対して負担をかぶせようとした。そこで「権力を取らないことには自分たちの破滅につながる」と感じた商工業者,金融業者が、国民の様々な階層を反乱に駆り立てて、領主の組織する権力を打ち破った。1789年7月14日のバスチーユ占領がその始まりとなった[3]。この時点では上層銀行家と株式仲買人を中核とする金融業者の一団が、雑多な群衆を反乱に向けて組織した[4]。さらにパリ駐屯のフランス衛兵が反乱を起こし、国王軍と群衆の衝突の中で、国王軍を敗北させた。この軍の反乱には下士官を構成する下級貴族の役割が大きかった[5]。この革命によって宮廷貴族の減免税特権は廃止され家柄万能の時代は終わり、フランスの近代化が始まった[6]。, フランス革命で倒された旧体制はアンシャン・レジームと呼ばれ、日本では絶対主義と呼ばれている。この言葉は中世の封建制度[注 1]に比べると、国王の権力が強まり、国王の絶対的権威は王権神授説によって理論化され「朕は国家なり」という言葉がその本質を表していた[7]。フランス絶対主義はルイ13世の時代にリシュリュー宰相(枢機卿、公爵)によって確立され、ルイ16世の時代に終わった。しかし、絶対主義という言葉で呼ばれているにもかかわらず、必ずしも国王個人が絶対的な権力を持っていたわけではなかった[7]。国王はフランスの領土の5分の1を持ち、最大の領主であったが、あくまで領主の一人にとどまり、最大の領主であったというにとどまる[8]。絶対王政の期間では国王が権力を行使できない場合も多く、国王を立てて絶対的な権力を行使したのは、リシュリューやマザランなどの一群の大領主であった[9]。この時代に王権を動かしていた大領主の一団は宮廷貴族と呼ばれ、約4000家あった[8]。宮廷貴族の地位は家柄で決まっていて[注 2]、宮廷貴族の上層は家柄の力で高級官僚に若いころから任命された[10][注 3]。, これらの西洋の領主・騎士階級を日本語では通常「貴族」と呼んでいるが、実態は平安時代の「貴族」よりも江戸時代の「武士」に近いものであり[11]、「貴族」というよりは「西洋の武士階級」とすべきものである[12]。当時の宮廷貴族に要求される能力は、宮廷の作法、剣の操法、宮廷ダンスの技術、貴婦人の扱い方であり、学問とか、経済運営の能力は次元の低いものとみられていた[10]。宮廷貴族の大多数は大蔵大臣の仕事に向かない者が多かったため、有力宮廷貴族がパトロンとなって能力のある者を大蔵大臣として送り込み、その代わりに自分の要望通りの政治を行わせた[10]。これらの宮廷貴族がベルサイユに集まって、王の宮殿に出入りしていた[13]。, 宮廷貴族は収入を得るために高級官職を独占していた[14]。当時の官職収入は桁違いに大きく、正規の俸給よりも役得や職権乱用からあがる収入の方が多かった。これらの役得は当然の権利とされていた[15][注 4]。このため4000家の宮廷貴族はその大小の官職によって国家財政の大半を懐に入れていた[17]。これらの官職の中には無用な官職も多く、たとえば、王の部屋に仕える小姓の官職[注 5]だけに8万リーブル(約8億円)[注 6]が必要であった。その高い俸給と副収入が貴族の収入となっていた[19]。, また、国家予算の十分の一を占める年金支払いは、退職した兵士や将校にも支払われていたが、その年金額には大きな格差があり、退職した大臣や元帥といった宮廷貴族には巨額の年金が支払われた[20]。さらに王が個人的に使用できる秘密の予算もあり「赤帳簿」と呼ばれた。宮廷貴族は夫人を使って大臣、王妃、国王のところにいろいろな理由を付けて金を取りに行かせた[注 7]。これらは宮廷貴族による国庫略奪であった[21]。, フランス革命は国庫の破綻を引き金にして引き起こされた。国庫の赤字を作り出したものはこのような宮廷貴族の国庫略奪であった。ところが、このような不合理な支出が当時の宮廷貴族にとっては正当な権利と思われていた[21]。その権力を守るために宮廷貴族たちは行政、軍事を含めた国家権力の上層部分を残らず押さえていた。宮廷貴族から見ると国家財政を健全化するために無駄な出費を削ろうとする行為は、宮廷貴族の誰かの収入を削ることになり、その権利を取り上げることは悪政と見えた[22][注 8]この場合国王個人や少数の改革派の意志は問題にならず、宮廷貴族の集団的な利益が問題となった[22]。このように宮廷貴族は当時のフランス最強の集団であり、革命無しにはこれらの宮廷貴族の特権を奪うことはできなかった[24]。, 宮廷貴族は行政と軍事の実権を握っていたが、司法権は法服貴族に明け渡していた。法服貴族の中心は各地の高等法院(パルルマン)であり、パリ高等法院が最も強力であった[25]。法律に相当するものは王の勅令として出され、これをパリ高等法院が登録することで効力が発生した[25]。国王の命令はほとんどの場合絶対であり、ときどき高等法院が抵抗運動を起こして王の命令を拒否したり、修正したりすることに成功しただけであった[注 9]。立法権は宮廷貴族を含めた王権に属していた[25]。法服貴族の官職は官職売買の制度によって買い取らなければならず、売買代金を王が手に入れた[25][注 10]。彼らのほとんどはブルジョアジーの上層から来た。司法官の職を買い入れると同時に領地も買い入れ、貴族の資格を買った[26]。法服貴族は宮廷貴族に比べると特権階級ではなく、領地の経営と官職収入で財産を作った。彼らは支配者の中の野党的存在であった[26]。, 宮廷貴族の中にはオルレアン公爵ルイ・フィリップ、ラファイエット公爵など反体制派の一派がいた。彼らは宮廷内部の権力争奪戦で敗者になり、日陰の存在であった[27]。そのため進歩的な発言をするようになった。彼らの大多数は官職収入の比重が少なく、自分の領地からの収入の比重が多かった。このため王に頼るところが少なかったので、王に服従せず自由主義派になった[28]。彼らは宮廷貴族の反主流派だった[29]。, フランス絶対主義下では商業貴族と呼ばれた貴族の一団があった[28]。これらは商業や工業を経営して成功し、貴族に列せられた者たちでブルジョア貴族と呼べる者たちであった[28]。この商業貴族にはせいぜい減免税の特権しかなかったが、商人や工業家にとっては社会的な名誉であった。国王は商工業を振興するという建前から、王権の側はこれに対していろいろな政策をとった[28]。商業貴族は「貴族に列っせられた者」と呼ばれ貴族社会では成り上がり者と見なされた[28]。しかし貧乏な地方貴族よりは、はるかに経済力があった。これらの商業貴族の多くは地方行政の高級官僚となっていた[30]。, ブルジョアジーには徴税請負人という一団も存在した。フランス王国では間接税の徴収を徴税請負人に任せた[31]。その徴税の仕方は極めて厳しかった[注 11]ので、小市民から大商人に至るまで恨みをかっていた[注 12]。徴税請負人は封建制度への寄生的性格の最も強い存在であった[32]。徴税請負人は工業、商業の経営や技術の進歩に大きな役割を果たしたものが多かったので、本来はブルジョアジーに属する[33]。しかし、王権の手先として商業そのものを抑圧する立場にもあった。そこで商人が徴税請負人を敵と見なすことが多かった[33]。調整請負人は国家と直接契約することはできず、一人の貴族が代表して政府と契約した。貴族はその報酬として年金を受け取った。すべては貴族の名において行われ、徴税組合には貴族が寄生していた[34]。, 銀行家や商人、工業家たちは当時のフランスではブルジョアジーと呼ばれたが、上層ブルジョアジーに属する者には貴族に匹敵する個人財産を持つ者も現れた[34]。しかし彼らはいろいろな方法で宮廷貴族に利益の一部を吸い取られ、国王政府の食い物にされた[35][注 13]。ブルジョアジーは宮廷貴族の被支配者であった[35]。, フランス絶対主義の時代には貴族や高級僧侶は領地のほとんどを持ち、経済的に強力な基礎を持っていた[36]。全国の土地が大小様々な領地に分かれていて、領地は直轄地と保有地に分けられ、直轄地は領主の城や館を取り巻いていた[36]。それ以外の土地は保有地として農民や商人、工業家、銀行家などに貸し与えた。それらの土地の保有者は領主に貢租[注 14]を支払った。その土地を売買するときは領主の許可が必要で、許可料を不動産売買税として支払わなければならなかった[38]。ブルジョアジーの中には農村に土地を保有して地主となった者もいたが、この場合も領主権に服し、貢租を領主に支払っていた[39]。農民で領主であった者は一人もいなかった[36]。農民やブルジョア地主は領主に領主権を支払いながら、国王には租税を払った。彼らは二重取りされていた[40]。, 絶対主義下では、国民は3つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2,600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。, ルイ14世の晩年以来フランスの国家財政は苦しくなり、立て直しの試みも成功せず、ルイ16世の時代になって財政は完全に行き詰まり[41]、1780年代時点の財政赤字は45億リーブル(2017年時点の日本円で54兆円相当[42])にまで膨張していた。しかしルイ16世が任命した蔵相たちは宮廷貴族に十分な課税をせず、国家の資金を惜しげも無く与えた[43]。財政困難が深刻になり宮廷が万策尽きた結果、国王はテュルゴーやネッケル等の改革派を蔵相に任命せざるを得なくなった[注 15]。彼らは宮廷貴族などの特権身分に対して課税などの財政改革を進めようとしたが、宮廷貴族などの特権身分たちはこれに反対して、その改革を失敗させた[43]。宮廷貴族たちは宮廷の官職、軍隊の高級将校、将軍、元帥、行政上の高級官職を握っていた。彼らの圧力を受けて改革派大臣は追放されることが繰り返された[44]。, 1787年4月に財政はブリエンヌ伯爵[注 16]に任された。彼は終身年金の創設による借款を行い、続いて土地税の代わりに印紙税を提案した。印紙税は貴族よりブルジョアジーに対して負担が重い税だった[注 17]。パリ高等法院は印紙税の登録に反対した。ブリエンヌは国家破産に直面して4億2000万リーブルの公債増発を発表した。このときオルレアン公が、公債発行を不法だとして抗議し、国王と対立し、オルレアン公はパリから追放された。高等法院はこれに対して国王に抗議行動を起こした[46]。王権の側は高等法院を抑圧し、法服貴族から司法権を取り上げ、全権裁判所を新設した[46]。この措置は全国的な動揺をひきおこし、オルレアン公に代表される自由主義貴族の反対運動はブルジョアジーや下層市民も引き入れていった[46]。全国的な反対運動のために増税は成功せず、公債を買い入れる者もいなくなった。1788年8月の初めにブリエンヌは「国庫は空になるだろう」という報告を受けた[47]。8月16日にブリエンヌは、現金支払いは一部だけとして、その他を国庫証券で支払うと命令した[47]。この命令はブルジョアジーに恐慌状態を引き起こした[47]。ブリエンヌはさらにケース・デスコント (fr:Caisse d'escompte) [注 18]紙幣の強制流通を命じた。この結果パリでは紙幣と現金[注 19]の交換を求めて取り付け騒ぎが起こった。国庫には50万リーブルしか残らず、ブリエンヌは辞任させられた[48]。国王は平民の銀行家ネッケルを呼び戻して財務総督にするしかなかった。パリ高等法院[49]は、全国三部会[注 20]のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた[50]。ネッケルは三部会招集を条件として出し、国王は1789年5月1日に招集すると約束した[48]。, これらの運動は宮廷内で冷遇されていた野党的貴族[注 21]とブルジョワジー以下が合流して宮廷貴族の本流に対して反抗したものだった[51]。, 1788年7月25日パリ高等法院は採決を身分制で行うべきだと声明を出した。これでは第三身分が少数派になってしまうことになり、第三身分は高等法院を裏切り者として攻撃した[52]。高等法院は譲歩して12月5日に第三身分の代表者数の倍加を認め、第三身分と高等法院の決裂は回避された[53]。ネッケルは第三身分の倍加を主張し、ネッケル派の大臣も賛成した。国王と王妃も承認せざるを得なくなった。1789年1月24日に三部会の招集と選挙規則が公布された[53]。各地で選挙が行われて議員が選出され、1789年5月5日、ヴェルサイユに招集された[54]。第一身分(僧侶)が300人、第二身分(貴族)が270人、第三身分(平民)が600人で半分が法律家で、大部分がブルジョアジーだった[54]。国王は開会式で三部会を独立した権力機関ではなく、国王の命令の下に財政は赤字解消に努力するものとしか言わなかった[54]。三部会が始まると議決方法を身分ごとにするか、人数別採決にするかで紛糾し、1ヶ月の時間が過ぎていった[55]。また議員の俸給一人800リーブルも財政赤字で4ヶ月支払われなかった[55]。, 第三身分は1789年6月17日に自分自身の名を国民議会と呼ぶことに決定した。国民議会の権限について議決を行い、国王には国民議会の決定にいかなる拒否権もないこと、国民議会を否定する行政権力は無いこと、国民議会の承認しない租税徴収は不法であること、いかなる新税も国民議会の承認無しには不法であることを決定した[55]。さらに、ブルジョアジーの破産を救うべく「国債の安全」の宣言も決議された[56]。絶対主義の王権は破産に直面すると公債を切り捨てて、国庫への債権者を踏みにじって危機を乗り越えてきた。これに歯止めをかける決議は、王権にとって致命的だった[56]。, このような第三身分の動きに僧侶部会が影響を受け、多くの司祭と少数の司教が第三身分へ合流した[56]。貴族部会の大多数は第三身分の行動に反対した[56]。1789年6月20日に国王は国民議会の会場を兵士によって閉鎖するよう命令し、国民議会の集会を禁止し、国王が改めて三部会を招集するという命令を伝えた[57]。, 国民議会の議長バイイはこれに抗議して隣接する球技場になだれこみ、国王の命令に反して決議を行った。「国民議会は憲法が制定され、それが堅固な土台の上に確立するまで決して解散しないことを誓う」ことが決められた。これがのちに「テニスコートの誓い」と呼ばれるようになった[57]。6月23日に三部会が招集されたが、4000人の軍隊が出撃の準備を整えていた。国王ルイ16世は高級貴族と近衛兵に囲まれて議場に入場すると「国王の承認しない議案は一切無効である」と宣言した。そして身分別に議決を行うことを命令し、貴族の政治的特権と減免税特権は尊重し、維持すること、封建的特権は財産として尊重することなどを宣言した[57]。これによって国王と国民会議は全面的対決となった[57]。国王が退出すると三部会は解散の命令を受けた[58]。, 宮廷貴族は御前会議で三部会の解散、10億リーブルの強制借款とロレーヌをオーストリアに600万リーブルで売却することなどを決めた[59]。強制借款は特権身分に課税する代わりに、強制的に国民から金を借り上げようとする政策だった[60]。この場合、強制的に大金を政府に貸すことを強要されるのは、大商人、銀行家、金融業者、大工業家であった。このような借り上げでは返還の当てもなく、事実上の没収になってしまう[60]。ブルジョアジーを破産させる政策であり、三部会解散は国民議会の権力を否定し国王と貴族の絶対主義的権力を再確認する政策だった[59]。こうしたうわさがパリに流れると、ますます反抗的な気運が高まった[59]。, 7月11日に国王と宮廷貴族はネッケルとネッケル派の大臣を罷免した。代わって宮廷貴族の強硬派が大臣を固めた。ブローイ公爵(元帥)が総司令官兼陸軍大臣となり、ベルサイユ宮殿を野営地に変えて、パリで暴動が起こったときの戦略として、パリ全部を守ることは不可能であるから、株式取引所と国庫とバスチーユ、廃兵院を守るにとどめることが指示された。これはパリ市民との軍事衝突の際に国家財政の実権だけは確保するために必要な戦略であった[61]。, 国民議会は軍隊の撤退を要求したが、国王は外出と集会の禁止令を出した。オルレアン公爵の私邸パル・ロワイヤルには王の布告を無視して大群衆が集まった。7月12日軍隊がパリに向けて出撃を始めた。パレ・ロワイヤルでは「武器を取れ、市民よ」という演説がされ、6000人の群衆が軍隊と衝突した[62]。, すでに軍隊では給料支払いが遅れていて、近衛兵すら不満を口にし、将校の命令に従わなくなっていた。軍隊の中に王権に抵抗するための秘密クラブも作られた[59]。7月14日に再び軍隊が出動すると群衆がフランス衛兵と共に廃兵院に押しかけ、3万丁の小銃を奪ってバスチーユ要塞監獄に向かった[63]。群衆が占領したバスチーユに政治犯はいなかったが、要塞は大砲をのぞかせて周囲の脅威となっていたことと、武器弾薬庫を抱えていたので重要な戦略目標だった。国王の軍隊はパリ全体で敗北し、地方都市でも国王の軍隊は敗北し、各地方で軍隊の反乱が起こった。国王の側はこれ以上の軍事行動ができなくなった[63]。, ブローイ元帥は反撃の機会をうかがうべきであると説いたが、すでに軍隊と共に移動する資金も食料もなかった。そこで国王は泣いて屈服した[64]。国王ルイ16世は譲歩することを決心し軍隊を引いて国民会議に出席し「朕は国民と共にある」と言い和解を宣言した[64]。軍事行動を指揮した宮廷貴族たちは群衆に処刑された。有力な宮廷貴族たちは逃亡し、国王だけが第三身分の捕虜同然の身としてフランスにとどまった[65]。, この勝利で権力を握ったのは最上層のブルジョアで、経済活動で最強の力を持つ者だった。その中には貴族の資格や領地を持つ者も多かった。これらの上層ブルジョアジーたちは士気が乱れていた兵士たちに積極的に働きかけて買収して、ブルジョアジーの軍隊に仕立て上げていた。兵士の反乱は自然発生的に起こったのではなかった[66]。, 国王軍に勝利した商工業者(ブルジョアジー)の上層は、自由主義貴族と連携しながら権力の指導権を握った[68]。これ以降の政権はブルジョアジーの上層が租税徴収権を握り、財政改革を行った[69]。宮廷貴族に負担をかぶせ、徴税を実行し、宮廷貴族に対してなされていた財政資金を削減か打ち切り、それによって浮いた財源で商工業、金融業の救済・発展のために支出した[69]。, 勝利の後、自由主義貴族と上層ブルジョアジーの最上層の政権。旧体制の特権や領主権に深い関わり合いを持った者達の政権ができた。彼らは金の力で領地を買い、貴族の力を手に入れ、裁判権や地方都市の財政長官や徴税請負人の地位を持っていた[70]。ネッケルが呼び戻されて蔵相に再任され、ネッケル派の大臣も返り咲いた[71]。ネッケルは強制借款を取りやめた。国民会議では財政委員会を選出して財政の立て直しを図ったが、その基本方針は特権身分への課税、特権身分への支出の削減、停止であった[71]。バスチーユ敗北直後から一部の宮廷貴族は復讐を恐れて亡命した[注 22]。, 革命直後から「大恐怖」と呼ばれる農民の暴動が各地で起こった。農民は領主の城や館を襲撃した[73]。農民に襲撃された領主の中には革命派の貴族も含まれていた。中には武器を持って農民に立ち向かった自由主義貴族もいた[74]。国民議会では農民暴動を武力弾圧せよという強硬派と、暴動に正面から立ち向かうことは不利であると考える勢力が激しい討論を繰り広げた[75]。国民議会はまだヴェルサイユに駐屯する国王軍の脅威を受けていた。国王軍は撤退しただけでいつでも反撃できる体制にあった[75]。国民議会が農民の反感を買うと農村の支持者を失って、国王軍の反撃に敗北するかもしれなかった[75]。, そこで妥協案として封建権利を二つに分けて「人にまつわるもの」(十分の一税と領主裁判権、死亡税、狩猟権、鳩小屋の権利など)と「土地にまつわるもの」(封建貢租と不動産売買税)に区別し、前者は無償で廃止するが、後者は有償で廃止する提案が1789年8月4日に出され、自由主義貴族の多くが賛成して可決された。こうして領主権は単純な地代に転換された。この結果農民暴動は収まった[76]。, 8月4日の宣言には「租税の平等」「文武の官職に全ての市民を登用する」「金銭的特権を廃止する」「貴族の官職独占の否定」「官職売買の禁止」「人権宣言」[注 23]も含まれていた[77]。これらの宣言にネッケル派とムーニエ派が反対したが多数派に敗北した。ネッケル、ムーニエ派は国民議会のこれ以上の改革を阻止しようとした。国王はこれを見て9月18日に親書を送り、8月4日の宣言を認めないことを通告した[78]。, 7月14日前後からパンの値段が異常に値上がりした。これは商人の買い占めによるものだった[79]。10月5日にパリの婦人の一団がパンを要求しにベルサイユへ行き国民議会に押し入り、国民衛兵と武装した男性たちもベルサイユに集まった。10月6日の朝、近衛兵が発砲し一人が死ぬと、群衆は怒って王妃の部屋に乱入した。群衆は国王が出てくることを望み、国王一家と国民議会はパリに移転することに決まった。国王は宮廷貴族から切り離されて軟禁状態に置かれた[80]。国王が連れ去られると、まだ残っていた宮廷貴族が亡命を始めた。ムーニエを初めとして貴族議員の200人や貴族将校も亡命した[81]。, しかし食料不足は解決せず、小規模な暴動がたびたび起こったが、国民議会と国民衛兵によって鎮圧された。首謀者は処罰・処刑され秩序が回復された[82]。, ベルサイユ行進は宮廷貴族の残存勢力に決定的な打撃を与え、国王を人質に取った国民議会の権力を全国に及ぼすこととなった[83]。, 12月2日に僧侶財産の国有化が可決され、そのあと国民議会の財務委員会がネッケルの反対を押し切って、国有化された僧侶財産を担保に紙幣を発行することにし、これをアシニアと呼んだ。アシニアを受け取った者は僧侶財産を買い入れることができた。国家がケース・デスコントから借り入れていた1億7000万リーブルはアシニアで返済された[84]。, 1790年1月に地方自治体の選挙が行われ83県に分割され、県の下に群が置かれた[85]。1790年3月に国民議会の中に度量衡委員会が作られ、ラボアジェ等の活躍で1793年8月のメートル法公布となった[86]。1790年6月に第一身分と第二身分が廃止され貴族の称号の使用が禁止された。以後全ての人は「市民」(シトワイヤン)とよばれることになり、男性はシトワイヤン、女性はシトワイヤンヌと呼ぶことになった。しかしこの呼称は定着せず、それまで貴族に使われていた「ムッシュ」「マダム」が普通の人に対しても使われるようになった[85]。1791年3月20日に総徴税局が廃止され徴税請負人が廃止された[87]。1791年6月14日にル・シャプリエ法(Le Chapelier Law 1791)が公布され、経済的自由主義のもとに労働者の組合結成と争議の禁止、同業組合再建が禁止された[88]。, ベルサイユ行進の後革命運動を指導、組織するいくつかの党派が形成された。財政危機の中で様々な動きがある中でそれぞれの階級の人物が動き、次第にいくつかの党派へのまとまりが作られていった[89]。ラファイエット派は1790年5月に設立され入会金は100リーブルで、かなり高い収入がないと入会できなかった。ここには最上層部に属する自由主義貴族と最上層のブルジョアが参加した[90]。パリのジャコバン修道院を会場に設立されたジャコバンクラブは国民議会の左派が集まった。会費は年間24リーブル、入会金は12リーブルで、職人や労働者では参加できなかった。ジャコバンクラブには議員以外にも職人の親方層から貴族まで広く参加した[91]。コルドリエクラブは大衆を組織してその意見を政府と議会に押しつけることを目的に設立された。1790年4月頃には存在していた。会費は月2スーと極めて安かった。小商人から職人、労働者まで参加した。このクラブの指導者の中に後に恐怖政治の推進者の姿がかなり見られた[92]。コルドリエクラブの実権を握っていたものも裕福なブルジョアであった[92]。, 1790年10月に国民議会の改革に歯止めをかけようとして国民議会の多数派と対立していたネッケル派の大臣が辞職に追い込まれた。国王はこれを受けてパリにとどまって国民議会と妥協を重ねることの無意味さを認めて、逃亡計画を密かに立てた[93]。1791年6月20日に脱出計画が実行されたが、国境近くのヴァレンヌで捕まり、パリに連れ戻された[94](ヴァレンヌ事件)。, この事件の結果、もっとも右翼的、保守的な貴族議員が相次いで亡命した。軍隊の貴族将校からも大量の亡命者を出した。高級僧侶や高級貴族のうち王党派とみられた者は監視されたり監禁されたりした[95]。国民議会の左翼は王権を廃止して共和制を宣言する請願書を出し、貴族政治家はほぼ一致して国王を守ろうとした[95]。ジャコバンクラブの多数はルイ16世の廃位を決議したが、議会の多数が賛成して王位は守られた[96]。, ジャコバンクラブから分離した勢力が1791年7月16日にフイヤン修道院でフイヤンクラブを結成した。フイヤンクラブの議員が議会の多数になった[96]。7月17日に議会は共和派の集会を弾圧し、国民衛兵を派遣し、発砲によって数百名の死者を出した(シャン・ド・マルスの虐殺)。フイヤン派の権力は軍事力と警察力を背景に安定した。共和派の革命派は潜伏した[97]。, フイヤン派には自由主義貴族(領主)とブルジョアジーの最上層が結集していた。領主権の維持と確保のため8月27日に貢租の増加が決定された[97]。9月3日に憲法が成立し、立憲君主制を採用して行政権は国王に属し、立法権は議会に属するが国王に拒否権を認めた(1791年憲法)。議会は一院制で選挙権も被選挙権も一定の租税を納める者[注 24]に限定した[98]。「フランス王国は唯一にして不可分」と宣言された[注 25]。こうして革命の第一段階は終わった[98]。, 1791年9月30日に国民議会は解散し、新憲法の下で10月1日に立法議会が招集された。国民議会の議員は立法議会の議員になれないという規定が設けられたので、議員は全員入れ替わったが、議会の党派は変わらなかった[99]。権力の主導権を握るフイヤン派が264人、野党的左派が136人、無所属の中央派が345人いた。フイヤン派は絶対多数を取ったわけではなかったが、政治は安定し輸出と商品は増加し経済は安定した[99]。革命直前に比べて1791年のパンの値段は43パーセント下がり、肉の値段も41~30パーセント下がった。下層階級の生活は安定し、騒乱状態は遠ざかった[100]。憲法の成立を祝って大赦令が出され、共和派、貴族の反革命派も釈放された[101]。, 1792年1月に物価高騰が始まった。買い占め人とみられた商人の何人かが群衆に襲撃され破壊や放火の対象になった[102]。アシニアの価値は下落をはじめた。1791年度の国家財政は1億6200リーブルの赤字となった。赤字の原因は新しい租税の基本となった地租が土地所有者の抵抗によって進まなかったためだった。赤字を補充するためにアシニアの増発が行われた[103]。アシニアの信用をめぐってフイヤン派のブルジョアジーと他のブルジョアジー勢力との対立が起こった[104]。, そのころ王命貴族と王弟はドイツに集まっていた。1791年8月25日に南ドイツのピルニッツでオーストリア皇帝とプロシア王の共同宣言によって、フランス国王の権利を回復するために、両国が武力行使をする決意が述べられた(ピルニッツ宣言)。対抗策として立法議会のジャコバン系は王弟と王族財産の没収を要求し、11月9日に可決された。11月8日に亡命貴族の財産没収と死刑の適用を含む法律がフイヤン派の反対を押し切って可決された[105]。ルイ16世は亡命貴族についての法令は承認しないと通告した[105]。議会の中では戦争に賛成する者と反対する者の対立が起こった[106]。1792年3月10日にフイヤン派の内閣は崩壊した[107]。, フイヤン派の後に成立した内閣はジャコバンクラブの中心メンバーのブリッソーを中心にしていたのでブリッソー派と呼ばれた[107]。新閣僚の名前は国用の任命よりも数時間早く議会に通告され、王の権力はほとんど失われていた[107]。この政権は後にジロンド派とよばれるようになった。1791年12月13日に議会は亡命貴族の年金や国債の支払いなど、国家からの支払いを打ち切る決定をおこなった[108]。1792年の春、各地で領主に対する暴動が起き、領主の城が焼かれ略奪された。3月30日にジロンド派の提案で亡命貴族財産を差し押さえ、これを国民に対する賠償に用いることが決定された[108]。, この時期に領主権の無償廃止が政争の焦点となった。領主権の無償廃止をジロンド派も含めたジャコバン派議員が提案し、フイヤン派が抵抗した[109]。, ジロンド派内閣はオーストリアとの戦争の議会の賛成を取り付け、オーストリアとプロシアに宣戦布告した。しかし、国境に展開したフランス軍は依然として将校は貴族で、革命前の階級制度が維持されていた。貴族将校や貴族の将軍は革命政府を嫌悪して戦争をやる気が無かった。国王と王妃も敗戦を望み、フランスの作戦計画は国王と王妃を通してオーストリアに内通されていた。フランス軍は各地で敗走し、敵国軍はあまり困難なくフランスに侵入した[110]。こうした事態から、戦争に勝つためには新しい愛国心を持ったフランス人による軍隊を組織しなければならないことが痛感された[111]。議会では領主権の無償廃止を阻止したいフイヤン派が復権し、国王はジロンド内閣を6月13日に罷免した。ラファイエットは軍をひいきいてパリへ進撃し、フイヤン派の独裁政権を作る計画を立てていたので,積極的に敵国軍と戦闘をしなかった[112]。7月6日にルイ16世は、国境にプロシア軍が迫っていることを議会に報告した。無所属の中央派議員[注 26]は革命フランスを敵国から守る意思を持っている者が多かったので、7月10日フイヤン派の大臣は辞職に追い込まれ、議会は「国家は危機にある」という宣言を出した[113]。, フランスの危機にこたえて義勇兵がパリに到着し、彼らは「連盟兵」と呼ばれた[113]。武装蜂起を計画していたパリの諸区は王権の停止を議会に請願していたが、議会主義の枠内ではどうにもならないと判断して8月9日の夜にルイ16世のいるチュイルリー宮殿を包囲した[114]。これに対して領主権の無償廃止に反対する貴族階級が、党派を超えて王制を守る決意を持って宮殿に集合した[115]。8月10日は貴族階級の命運を分けた死闘になった(8月10日事件)。武装蜂起の側は貴族軍人を虐殺しながら宮殿を占領していった[116]。戦闘が終わると群衆が議会を囲み、王権の停止と普通選挙による国民公会の招集が要求され、立法議会はその圧力に屈した。8月10日で敗北したものは、フイヤン派のブルジョアジーと自由主義貴族、合流した地方貴族だった。彼らは旧体制に対する寄生性が強く特権的な立場にあり、領主でもあった[117]。, 1792年8月10日の事件で国民公会が招集されジロンド派政権が再び成立した。この政権は上層ブルジョアジーの党派だが、旧体制の特権に関わり合いを持つことが少なかった者達の政権だった。彼らは領主権の無償廃止に積極的だった[70]。ジロンド派はジロンド派の2倍の勢力があった平原派と呼ばれる国民公会の上層ブルジョアジーの中間層と連合して政権運営をした[70]。フイヤン派の打倒によりこの政権が封建領主権の無償廃止を実現した[118]。この結果、領主の直轄地はそのまま旧領主の所有地として残り、新時代の貴族の大土地所有地として残り、大・中・小の保有地は領主権から解放されて近代的所有地となり、それぞれ大・中・小の土地所有者となった。もともと土地を保有していなかった農民には土地は与えられなかった[118]。, 立法議会は8月10日の事件で群衆の圧力に屈したので信用と権力を弱めた。そのすきまを縫って議会と対立しつつ、パリ・コンミューン[注 27]がパリ市を治める権力機関になった[117]。プロシア軍がパリに迫ると、義勇兵の募集、戦略物資の調達、反革命容疑者の捜査と逮捕、前線への派遣委員の任命などを行った。こうして3000人の容疑者が投獄された[120]。パリ・コミューンは出撃する前に逮捕されている反革命容疑者を処刑するべきあるという意見が優勢になり、9月2日に扇動された義勇兵とパリ市民は牢獄に押しかけて即席裁判で容疑者を殺害して回った[121](9月2日の虐殺)。, 義勇兵は前線に向けて出発した。義勇兵は連盟兵と呼ばれフランス各地から集まってきた者で、自費か誰かの費用で武装していたブルジョアの子弟だった。貧しい階層はブルジョアの費用で武装した「ブルジョアの傭兵」だった。特にマルセイユ連盟兵[注 28]は裕福な家庭の子弟だった[123]。義勇兵の出撃と並行して軍需物資と食料の強制挑発が立法議会によって行われ、義勇兵の装備が強化された[123]。, 9月20日義勇兵とプロシア軍はヴァルミーの丘で出会った(ヴァルミーの戦い)。当時、軍隊は貴族のもとで整然と組織されなければものの役に立たないと思われていた。しかし、戦闘が始まると義勇兵の士気の高さと覚悟の強さに、プロシア軍は突撃命令を出すことができなかった[124]。プロシア軍は砲撃戦だけで終わり、わずかの死者を双方に出しただけで後退した[124]。プロシア軍は傷ついていなかったので征服地を押さえるつもりで駐屯したが、赤痢の発生と、農民部隊による輸送部隊の襲撃で、危険を感じて撤退した。義勇軍は重大な戦闘なしにプロシア軍を国境から追い出すことができた[125]。9月から10月にかけて義勇軍はドイツ領深く侵入して重要都市を破竹の勢いで占領した[125]。10月の末にオーストリア軍とフランス革命軍の激戦が行われオーストリア軍に大打撃を与えた[125](ジェマップの戦い)。, ヴァルミーの会戦と同じ日にパリでは国民公会が招集された。議員は700人を超え、ジロンド派[注 29]約165人と平原派[注 30]約400人とモンタニヤール派(山岳派)[注 31]約150人の三大勢力に分かれた。ジャコバンクラブは議会外団体としてジロンド派と山岳派の両議員が含まれていたが、内紛によって山岳派だけの支持団体になった[127]。9月21日に王政の廃止と共和制の樹立を宣言した[128]。(フランス第一共和政), 国民公会では国王の裁判が進み長い討論と一人一人の議員の指名点呼による評決を行い小差[注 32]でルイ16世の無条件死刑が決定された[130]。ルイ16世は1793年1月21日にギロチンにかけられた。, 1793年3月になるとフランスは敗戦に転じ、ヨーロッパの強国から侵略された[131]。原因は御用商人の悪徳行為で軍隊の食糧事情と待遇が悪くなり、士気が低下し、義勇兵が減少したことと、初期の戦勝に気を良くしたフランス革命政府が次第に征服と膨張政策に傾き、一種の世界革命的なイデオロギーで正当化してフランスの敵が増えたことにあった[130]。, アシニアの価値が下落し、物価高騰が起こり、貧民の暴動を誘発した。しかしこれを力で弾圧するとヨーロッパ列強との戦争に、献身的な民衆を動員することができない。物価高騰を止めるためにはアシニアの価値を維持し、増発されたアシニアを流通から引き上げねばならない。このための政策として貴金属売買の禁止、アシニアの強制流通、アシニアと競合する手形・株などの証券の取引禁止、累進強制公債(革命税)[注 33]などの政策が議論された[133]。累進強制公債には金持ちが反対し、ジロンド派はこれらの政策に抵抗したが、平原派はだいたい賛成した[134]。ジロンド派は食料品・嗜好品を中心とした貿易商人や問屋商人が多く、国家との取引でもうけるすべがないまま、巨額の革命税を取り立てられたため反乱を起こした[135]。平原派は工業家や軍需物資を扱う商人が多く、外国との戦争で国家の軍事注文を受けて莫大な儲けを得た資本家が背後にいた。彼らは一時的な犠牲[注 34]を払っても戦争に勝ってほしいと考えた[137]。, ジロンド派は平原派の支持を失って、次第に山岳派に押されていき権力の座から後退していった[138]。ジロンド派は累進強制公債の採決に敗れると、徹底的な反抗を組織した。それに対して山岳派とジャコバンクラブが過激派と手を組み、5月31日と6月2日に武装したパリ市民が国民公会を包囲し、ジロンド派議員は逮捕された。1793年10月3日に21人のジロンド派議員が処刑され、10月16日には王妃マリー・アントワネットも処刑された[139]。, 1793年6月2日の事件で山岳派の政権が成立した。当時のフランスは大混乱にあり、政府の権力が及ばない地域もあれば、欧米列強の占領地もあれば、昔の領主がまだ政府以上の権勢を維持して違法な封建貢租の取り立てもあった[140]。このため政府は改めて「封建貢租徴収の禁止」の法令を出した[141]。, 国内の混乱に対処するため、政府は臨時行政会議と呼ばれる内閣を組織し、公安委員会がその内閣を監視指導した。保安委員会は公安委員会から独立した警察権力を発動した。公安委員会と保安委員会はジャコバンクラブを背景に持つ国民公会の山岳派議員が大多数を出した[142]。また平原派は財政委員会を担当し、個人や企業の契約に対して、国家の資金を支払うかどうかの決定権を持った[142]。こうして公安、保安、財政の三委員会の権力ができた[143][注 35]。, このころフランス軍は敗北を重ね[注 36]、食料品の高騰や買い占めが激しくなり、貧民の暴動が起こった[注 37]。これに乗じて過激派の各党派が最高価格制による物価の抑制、買い占め禁止法、買占め人の処刑などの非常手段を要求して、国民公会に圧力をかけた[145]。1793年7月10日に公安委員会が改選され、平原派が後退した。7月27日にロベスピエールが公安委員会に迎えられた[146]。内外の情勢はさらに絶望的になり、9月5日に過激派の中の最大勢力のエベール派が群衆を動員して国民公会を包囲した(9月5日の行進)。過激派は「反革命容疑者の逮捕」「食料調達のための革命軍の編成」を要求した[146]。このときは平原派は発言せず山岳派が議論を闘わせたが、ロベスピエールを初めとして山岳派は群衆に屈して国民公会と公安委員会がその政策を実施させられた[147]。, 9月5日以降、貧民の圧力を背景にしたエベール派の圧力で、後に恐怖政治と呼ばれる政策が実行された。それまで大した仕事してこなかった革命裁判所[注 38]の人員が増強され、次々と反革命容疑者に死刑を宣告していった[149]。9月29日に最高価格制が布告された。生活必需品の品目を定め最高価格を決定した。この布告で群衆が商店に押しかけ商店は空になった。10月の末になるとパンがなくなり、パリ・コミューンはパンの配給切符を実施し、他の都市も真似をした。品不足と食糧不足が起こった[148][注 39]。10月4日に買い占め人を摘発するための法令が国民公会に提案され、買い占め人の家宅捜索と強制徴発を行い、即席裁判でギロチンにかけることが決まった。10月半ばにはさらに食糧不足が深刻になり「革命軍」を新しく編成し[注 40]、農村を回って食料を徴発し、家宅捜索を行い、違反者を処刑して回った。これによって一時的には都市の食糧不足を和らげた[151]。, 国民公会と公安委員会は群衆の圧力に応じて恐怖政治を進めたが、同時に群衆を扇動した過激派の弾圧も続けた。食糧危機が一段落し人心が収まったのと、戦争が勝利に転じたことを背景に、過激派指導者たちは消えていった[152]。, パリには多くの外国人銀行家が集まっていたが、これらが排除された結果、無制限な投機行為が抑えられ、アシニアの買いたたきや食糧調達が改善され、経済危機の緩和に役立った[153]。革命政府の取った非常手段は、累進強制公債、金属貨幣の流通停止、アシニアの強制流通、証券取引の停止などだったが、これによって唯一の紙幣となったアシニアの価格が上昇に転じた。最高価格制と強制徴発、買い占め禁止、違反者の厳罰も効果があった。物価はこれを反映して安定し、下層民の生活は安定した[154]。足下を安定させた国民公会と公安委員会は全力挙げて反革命軍と外敵との戦闘に向かった[155]。またこの政策の結果、フランス軍では正規軍と義勇兵の区別がなくなり、貴族将校の後を平民将校が埋めた。彼らは能力もあり勇敢だったので兵士の信頼を集めた。暴利をむさぼった御用商人も粛正され軍隊の装備も良くなった。重工業がフル回転を始め武器弾薬が豊富に供給された[156]。この結果列強を敗走させ、1793年の末までに革命政府は内外の危機から解放された。これらの政策で打撃を受けた者は外国の貿易会社、貿易商人、これと結びついていたフランス商人だった。一方利益を受けた者はフランスの工業家だった。革命政府は工業の振興に努力をし、軍需工業とその関連部門に資金を投入した。これは商業を犠牲にした工業の育成となった[155]。また、このとき革命のスローガンが「自由・平等・友愛」に変わった[157]。, 1794年になるとフランスは危機を脱し、安心感が出てきた。こうした中でロベスピエールは、反革命容疑者の財産を没収して土地のない貧民に与えるための「ヴァントゥーズ法」を提案した[注 41]。ロベスピエールは反革命容疑者を裁くための人民委員会の設立を提案し、可決させ、反革命容疑者の逮捕に乗り出した[159]。最後に汚職議員、腐敗議員の逮捕・裁判の権限を行使することを認めよと国民公会に提案したが、国民公会の平原派議員と山岳派議員の大多数から反対された。当時の議員の大多数は何らかのやましいところがあったからであった[159]。また、ロベスピエールは独裁者であるという批判が、国民公会や保安委員会の多数派から投げつけられ、ロベスピエールは最後の1ヶ月は公安委員会に出席しなくなった[159]。ジャコバンクラブでロベスピエールは無力になったと打ち明けた[156]。, ロベスピエール派の山岳派議員はわずか10人ほどで、他の山岳派議員はロベスピエール打倒に回った。ロベスピエールはジャコバンクラブから反対派を排除し、組織固めをした[160]。ロベスピエールの去った公安委員会は反革命容疑者の選別の厳格化をさせたり財産差し押さえを延期させた[160]。ロベスピエールは議会で演説したが、大多数の議員に支持されなかった[161]。, ロベスピエールは7月27日(テルミドール九日)にパリ・コミューンと同盟を結んだが、軍隊が集まらず、国民公会の軍隊に急襲されて逮捕された。7月28日、ロベスピエールら約100人が処刑された。1794年7月28日に国民公会の諸委員会の改選が行われ、8月25日に12の行政委員会に権力を分散した。この結果、平原派が力を持つようになりジロンド派の生き残りを復帰させた[162]。ロベスピエール死後も恐怖政治の継続を主張した山岳派は排除され、恐怖政治は全廃された。株式市場と商業取引所の再開、処刑された者の財産も返還された[注 42]。国債利子の支払い停止も撤回された。こうした政策によりブルジョアジーの財産は回復され、元通りの活動が再開された[163]。11月22日、国民公会はジャコバンクラブの閉鎖を決議した[164]。ちょうど「8月10日事件」以後の状態に戻り、ここでフランス革命は終わった[165]。, 平原派とジロンド派の生き残りの国民公会は1795年8月22日に「共和国憲法」を制定し、普通選挙から制限選挙に逆戻りした。議会は上院の元老院と下院の五百人会議に分かれ、議会から5人の総裁が選出され、総裁が行政権を握った[165]。議院内閣制であったが、この制度ではブルジョアジーと大土地所有者の代表者が絶対的に有利であった[165]。1795年10月に総裁政府が成立した。, その後はナポレオンの第一帝政(1804年)、ナポレオン失脚後の王政復古、七月革命(1830年)と続き、宮廷貴族の勢力は最終的に排除された[166]。, 小林良彰は世界史を日本史に翻訳する過程で重要な語句について誤訳があると指摘[170]し、科学教育研究者の板倉聖宣も同様な意見を述べて、小林に賛成した[11]。, 日本では服装を見れば江戸時代か明治時代以後かすぐ分かる。ちょんまげなら江戸時代、洋服なら明治以後と分かる。板倉聖宣は「明治維新を市民革命とみない人々でも、明治維新の前と後では見違えるような大きな変化があったということは認める」と述べている[175]。板倉は「フランス革命の前後でも大きな変化があったなら、それは一枚の絵を見たり、ドラマを見たりして判断することはできないのだろうか」「それを教えることも歴史教育の仕事と言える」という問題意識を持った[176]。革命政府が初めに行ったことの一つは「服装から身分差を無くすこと」だった[177]。, 板倉は、ヨーロッパの歴史でも、キュロット(フランス革命以前に貴族が着用していた膝丈の半ズボンのこと)を着ていたり、「豪華な刺繍の付いたチョッキ類を身につけた人」は、フランス革命以前の貴族とみて良い[178]。そういう人物が出て来ないならフランス革命以後とみて良いと言える、としている[179]。, 1790年8月3日、政府はユダヤ人の権利を全面的に認めた。1792年5月から1794年10月まで、キリスト教は徹底的に弾圧された。当時カトリック教会の聖職者は特権階級に属していた。革命勃発以来、聖職者追放と教会への略奪・破壊がなされ、1793年11月には全国レベルでミサの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められ、溶かされた。こうして、クリュニー修道院やサント=ジュヌヴィエーヴ修道院などの由緒ある教会・修道院が破壊されるとともに、蔵書などの貴重な文化遺産が失われた。破壊を免れた教会や修道院も、モン・サン=ミシェル修道院のように、牢獄や倉庫、工場などに転用された。, エベールらは「理性」を神聖視し、これを神として「理性の祭典」を挙行した。ロベスピエールは、キリスト教に代わる崇拝の対象が必要と考え、「最高存在の祭典」を開催した。しかし、ロベスピエールが処刑され、一度きりに終わり定着しなかった。, その後もカトリック教会への迫害はしばらく続いたものの、1801年にナポレオンがローマ教皇とコンコルダートを結んで和解した。, なお、このような経緯を経たが、「革命は宗教を否定するものではない」とする主張もある。, 暦法として当時から採用されていたグレゴリオ暦は1582年にローマ教皇グレゴリウス13世によって制定されたものである。革命政府は、グレゴリオ暦は既存宗教(カトリック)とのつながりが深く不合理であると考え、1793年にこれに代わるフランス革命暦(「共和暦」とも)を制定した。しかし革命暦は秋分を年始とするほか、10日周期の週や、1日を10時間、1時間を100分とする時間の単位など十進法を用いて合理性を追求しており、これまでの生活習慣と大きく異なるものであった。このため革命暦は不評で、ナポレオンが即位したあとの1805年に廃止され、グレゴリオ暦が復活して今日に至っている。, 当時のフランスでは度量衡が統一されていなかったが、単位制度として1791年にメートル法が定められた。メートル法は定着までには時間を要したが、今日では国際単位系として世界における標準的な単位系となっている。, 革命によって貴族が一掃されたわけではなく、貴族たちの中にも革命側に加わった者や、一旦は亡命したもののナポレオン時代以後にフランスに復帰した貴族も多い。, 人権宣言が発せられた際に、すべての人間にとって普遍的で権利であるはずの人権は、啓蒙思想などによって「理性を持たない半人間」とされたフランスの植民地に住むムラート(白人と黒人の混血)や黒人(そしてインディアン、インディオ)には認められず、1791年にブークマンに率いられた黒人奴隷が大反乱を起こすまで奴隷制についての真剣な努力はなされなかった。1793年のレジェ=フェリシテ・ソントナ(フランス語版)による奴隷制廃止宣言や、1794年のジャコバン派による正式な奴隷制廃止決議は、1791年に始まったサン=ドマングの黒人大反乱による植民地喪失の危機から植民地を防衛するためになされたものであり、決して人権宣言の理念に直接基づいてなされたものではなかったが[180]、それでもジャコバン派による植民地をも包括した全面的な奴隷制廃止は近代西欧世界史上初となる画期的なものであった。この後、ナポレオン・ボナパルトはトゥーサン・ルーヴェルチュールが実権を掌握していたサン=ドマングの再征服を計画し、奴隷制の復活を画策したが、解放された黒人の支持を得られなかったため、サン=ドマングは1804年1月1日に世界初の黒人共和国ハイチとして独立を達成した(ハイチ革命)。, この結果として、ハイチ革命後のフランス人の頭の中では、奴隷制の廃止が植民地の喪失とイコールで結ばれることになり[181]、のちのフランスにおける奴隷制は1848年に第二共和政下でヴィクトル・シュルシェールが廃止を実現するまで続くことになった。, 中世のフランスは日本の戦国時代に近い状態で、王権とは名のみの存在であり、各地に私兵を抱えた大貴族が割拠していた。これらの大貴族の中には外国の君主に服属する者が多数いた, 宮廷貴族になるには少なくとも1400年代にまで遡って、貴族の家系であることが証明されなければならなかった, これらの小姓は家柄の低い宮廷貴族や、高級貴族の年少の子弟がなった。その官職には、王の髪をとくだけの係、マントを持つ係、ステッキを持つ係、便器を運ぶ係、ネクタイを結ぶ係、風呂場でふく係など多くの係を作って、それぞれに俸給を与えていた, 当時、標準的な職人、労働者の日給が1リーブル前後であった。年収では360リーブル前後となる。正確な比較はできないが、1リーブルは1万円前後となる。1万リーブルは1億円程度と考えると理解しやすい, たとえばポリニャック公爵夫人は娘の持参金に80万ルーブルを国王からもらい、ランバル公爵夫人は王妃付き女官長となり、彼女の父は王から3万リーブルの年金と1個連隊を与えられた, ルイ15世は「朕の宮殿での盗みは莫大なものだ。多くの高官が盗みに没頭し、全てを使い果たしている。朕の大臣のすべてがそれをただそうと努めた。しかし、実施の段階で尻込みして計画を放棄した」と述べている。国王が臣下の宮廷貴族たちを泥棒よばわりしている。これ打ち切ろうとすると宮廷貴族の反撃に遭うのである, 「朕は国家なり」という解釈は高等法院と王がいざこざを起こしたときに、王の側から打ち出された原則であった, 高等法院議長の職が11万リーブル、検事次長の職が4万リーブルという数字が残っている, 租税の滞納者は簡単に逮捕され、脱税のための密売の嫌疑がかけられるだけで有罪とされ、無罪が証明されなければ釈放されなかった。そのため、多くの商工業者やその妻子が厳しい刑罰を受け、背中をむち打たれることは珍しくなかった, 恐怖政治の時代に28人の徴税請負人がギロチンにかけられた。その中には科学者として高名だった, ケース・デンスコントはブルジョアジーの中央銀行であったが、ブルジョアジーが出資した資本金を国王政府が財政赤字を理由に強制的に借り入れた。そこで準備金は減少し、ケース・デンスコントの信用は落ち、銀行の発行する紙幣の流通が困難になった。これも革命を引き起こした原因となった, ネッケルは成功した銀行家で平民だったので、最初は国王に面会もできなかった。テュルゴーは貴族だったが宮廷に出入りできる身分ではなかった。彼らの任命はあくまで非常事態にもとづく、国王のやむを得ない措置だった, このとき亡命したのはブロイ公爵、ブルトゥイユ男爵、ランベスク太公、ポリニャック公爵、コンデ太公などであった, 選挙権を持つ者を「能動市民」、持たない者を「受動市民」と呼んだ。政権に参加できる者は少なくとも手工業の親方や小商店主、中農以上の者に限定された, 絶対主義の時代は外国人領主の領地や外国扱いされていた地方があって、かならずしもフランス王国の領土と認められていないものがあった, のちにこの勢力は、議場の中央の低いところに集まっていたので平原派と呼ばれるようになる。, 前身はパリ選挙人会議である。もとはフイヤン派で固められていたが、8月10日以後はパリのそれぞれの区の代表と自称する者が議場に侵入し、前議員を追放して「革命的コミューン」「蜂起コミューン」と称するようになった, マルセイユ連盟兵は「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら行進し、のちのフランス国歌になった, 議場の高くなっている席に陣取って、他の議員が彼らを見上げて「山にいる」という意味であだ名を付けた, 富者の財産を尊重しながら一時的に彼らから金を借り、もし祖国が救われたときは借りたものを返すという精神だった, ジロンド派の心配の通り、このときの累進強制公債は後日切り捨てが行われ、完全に返済されることはなかった, この事実は通俗的に使われている「ジャコバン党の独裁」は無かったのであり、正確には山岳派と平原派の連合政権とするのが正しい, オーストリア軍の大軍が国境からパリを脅かし、フランス海軍の軍港がイギリスに占領され、スペイン軍が侵入した, 1793年3月10日、フランス軍が敗走を始めたときに作られたが、活動はゆっくりしていて寛大だった。裁判所の判事と陪審員には職人、労働者はいなかった, このことは議員たちには予想されていたが、群衆の圧力でしかたなく議員は布告に賛成した, その頃の正規軍はすべて国境にいた。革命軍の指揮官の多くはブルジョアや大土地所有者の階層だった, この法令が実施されていれば「土地のない農民に土地を与える」という土地革命が初めて実現したはずであったが、ロベスピエール排除の結果、フランス革命では最後まで土地革命は実現されなかった, 天井知らずの国家の財政赤字がフランス革命を引き起こした ブルボン王朝の借金 総額54兆円, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フランス革命&oldid=81521768, フランス革命では領主の組織した権力は破壊され、商工業、金融業の上に立つ者が権力の指導権を握った。, フランス革命も明治維新も市民革命である。「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」これが市民革命の定理である, どちらも財政問題が基本的原因になった。フランスの宮廷貴族は巨額の国家資金を様々な名目で手に入れ、財政破綻を引き起こした。江戸幕府財政は大名をはじめとする領主が租税を負担せず、幕府財政資金から, フランスのビュルガー、ブルジョアは都市に住みながら貧民、下層民ではなく、戦士(武士階級)としての貴族でもないので「資産家」「中産階級」とすべきものである。単なる「市民」は誤訳である, 明治維新を西洋では「明治レストレーション(王政復古)」と訳しているが、西洋でレストレーションとは打倒された旧政権が復活したことを指す。明治維新をレストレーションというなら打倒された徳川幕府が復活した意味になる。明治維新はそのような変化ではないから誤訳である。日本人は当時「御一新」と呼んでいた。これは「革命」として差し支えない。正しくは明治レボリューションとしたいところである, ドイツ語の「ビュルガリッヒェ・レヴォルチオン」を「市民革命」としたのは誤訳で、正しくは「ブルジョア革命」と訳すべきである。これほど奇妙な訳語が使われ、しかも高校の教科書にまで書かれ周知の言葉になっているのは日本だけであり、世界の中でも珍しい。この言葉はドイツではそれなりに知られているが、フランスやイギリスでは一般的ではない, 日本では西洋中世の貴族の支配する土地を「荘園」と呼ぶが、日本で荘園というのは平安貴族の支配する土地で、古代国家の延長である。日本の中世の武士の支配地は「領地」であり、西洋中世の武士階級(貴族)が支配する土地も「領地」と翻訳するのが正しい.