【2015年11月25日更新】 新しく、the peggies、Raglaiaというガールズロックバンド、女性ボーカルバンドを そういう曲が好き 最近ブームみたいだけど実際はどうなの?と聞いてきた。 ブームなのか? 私的には面白い状況で、日本も北欧メタル的なブームが来つつある?けど、もう一歩かな~ と言う印象です。 一時期、海外で爆発的人気となったというニュースも報道されたアイドルグループ『BABYMETAL』。 筆者は彼女たちが登場した光景を見てただ衝撃を受けました。 というのも、かつてヘビーメタルどころかバンド形式のアイドルグループすらほぼ存在しなかった中で、極端にヘビーメタルに偏り、かつキャピキャピしたアイドル要素を融合させたアイドルグループがいきなり登場したからもうビックリ! こんな音楽の可能性があるんだと、新たな進化に驚かされたのです。 !』の「ヘビメタ」シリーズ企画は、そもそもヘヴィメタルを愛好していた総合司会のビートたけしの側近的立場であった森昌行が、日本の若いヘヴィメタルバンドを応援する企画はどうか、と総合演出のテリー伊藤に提案したが、ヘヴィメタルの魅力を全く理解出来なかった伊藤による誤解、偏見で「目立ちたがり屋の馬鹿=ヘビメタ」と歪んだ認識で企画を立て、知名度を得たい若手アーティスト達を利用し、馬鹿にするコーナーにしてしまっていた。森も初回放送後に苦言を呈したが、伊藤はまったく聞く耳を持たなかった。, そのXがインディーズバンドとして活動していた頃、パンクスによる「メタル狩り」と呼ばれるメタルファンとメタルバンドに向けた暴力行為や、メタルヘッズによる「パンク狩り」が横行していた時代でもあった[27]。実際、DEAD ENDのヴォーカリストMORRIEは当時のヘヴィメタルとハードコア・パンクは仲が悪かったと述べている[28]。一方で、1986年ごろには「GASTUNKとDEAD END、あとはCOBRA、CITY INDIANと一緒に」ライブをしたこともあると語っている[28]。XもG.I.S.M.やGAUZE、MASAMIと言ったハードコア・パンク系のバンドやミュージシャンとの繋がりがあった為、パンクスと喧嘩になりそうな場合、Xと繋がりのあるバンドや関係者であると知ると丸く収まると事があり、いかに当時のXがインディーズメタル界で影響力があったかと言うことを後年、ライブハウス「目黒鹿鳴館」の関係者が明かしている[29]。その後1980年代後半になると、状況は変わっていく。1987年に結成されたデスメタルバンドHellchildのメンバーは、「同年代の友達はジャパコアが多かった」、「ハードコアの奴らも当時けっこうEXPLOSIONに集まってた」と証言しており、「(メタルヘッズとパンクスの不仲は)全然ないですよ。HELLCHILDはパンク系の対バンのほうが多かったかもしれないですね。半々くらいかな」、「同世代では、ハードコアの人たちもスラッシュメタルを聴いてたし、スラッシュメタルやってる人もハードコアは聴いてたし。別に敵対するようなところはなかったですよ」と述べている[30]。, その後、Xはメディア露出を地道に重ねて着実に知名度を得ていき、ソニーとの契約に成功し1989年にメジャーデビューを果たす。, 他方で、従来のメタルバンドやミュージシャンがメタル専門誌以外のメディアに露出することは少なかった。メタルに関する情報が全般的に不足気味であった間に、X(主にYOSHIKI)をはじめとするバーバラ・アキタダ、DISTOMAのハードコアユキ、BAVETYのジン・スズキらによるパフォーマンスが、音楽的な興味や知識を持たないバラエティ番組(特に「天才・たけしの元気が出るテレビ! 第63回グラミー賞のノミネート作品およびアーティストが発表。未曽有のパンデミックの中、授賞式が行われる2021年のグラミー賞の入選者たちはこのアーティストたち。(フロントロウ編集部) q 絶対聴いた方がいい邦楽の女性ボーカルバンド☆. MUSIC CHAMP」や「堂本兄弟」などの音楽番組にも数多く出演していた。これが奏功してメタルファン以外にも受け入れられていったが、そういったバンドの姿勢を嫌うある意味では保守的な思想のメタルファンの存在も、彼らの登場によって再び表面化する事となった。, 1999年4月、メタル氷河期をメンバーチェンジもなくメジャーシーンで耐え抜いた数少ないバンドの一つである聖飢魔IIが、デビュー当時の公約どおりに同年末をもっての解散を予告し、解散前に怒涛のアルバムリリースラッシュと7月から大晦日までの長期ツアーを敢行、年末の東京ベイNKホールのライヴを最後に活動に終止符を打った。[注釈 14], 1999年の12月には、筋肉少女帯を脱退した橘高文彦、SLYが活動停止となった二井原実、そして爆風スランプのファンキー末吉&バーベQ和佐田の4名によって結成されたX.Y.Z.→Aが1980年代から続くピュアなジャパニーズ・メタルを旗印にするデビュー・アルバムをリリースしているが、自主レーベルを立ち上げての発売であった(販売網はキング・レコードに委託)。この布陣をもってしても音楽性が「メタル」ではメジャー・レーベルとの契約は困難な、厳しい時代だったのだ。, 『BURRN!』編集長である広瀬和生の証言によれば、日本市場でのBURRN!の発行部数と国内外問わずヘヴィメタルバンドのアルバムの売り上げが最も多かった時期は1997年との事である[48]。, 1998年のLAZY、BOW WOW、1999年のEARTHSHAKER、2000年のLOUDNESS、2001年の44MAGNUM、ANTHEM、2005年のSHOW-YAなど、ベテラン格のバンドが次々と再結成を果たした。その他、期間限定ながら全盛期のメンバーが再集結して活動を行うバンドも、2005年の聖飢魔IIを始めとして幾つか見られている。極めつきは2007年のX JAPANの再結成であり[49]、前述のHIDEの死、TOSHIの宗教絡みのトラブルやYOSHIKIの迷走などを背景に再結成が絶対不可能なバンドとしてまず第一に名が挙がる存在であっただけに、世間の驚きは大きなものがあった。, これらの影響か、2000年代中ごろからは、既に解散しているバンドについてベスト盤発売やライブ・セッションでの元メンバーの共演・ゲスト参加などをきっかけとして、マスコミやインターネットなど様々な経由で再結成の噂が聞かれる事も多く見られている。しかし、実際には単なる流言の域から出ないものであったり、検討されても現在の活動の多忙や、現在志向している音楽との方向性の違い、解散以前に発生した人間関係の齟齬などがネックとなり主要メンバーが揃わずに企画倒れに終わるものも多い。また、再結成を果たしたものでも、全盛期を支えた重要なメンバーが不参加のまま活動するバンドや、再結成の背景としてメンバーが抱える経済的な問題や困窮などの噂がつきまとうものも往々に見られる。そもそもメタルに限らず音楽業界全般の常として、過去のバンドの解散では多くのケースで大きな内輪揉めなどが起きており、それにも関わらず再結成して活動を行うのは、メンバーの多くが解散後に経済的困窮に陥り当座の収入を求めて過去のネームバリューに頼るために妥協をせざるを得なくなったか、あるいは喧嘩別れの解散後に関係が修復できたか、このいずれかであるのが実態であるという[50]。, この時代には、1990年代終盤からのKORN、リンプ・ビズキット、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンらを筆頭とするアメリカのラップ・メタルや、メタル界の帝王であるオジー・オズボーンが1990年代後半から開催するオズフェストに登場していたニュー・メタルのバンドに影響を受けた新鋭バンドが、1990年代末期から2000年代にかけて続々登場している。山嵐、RIZE、宇頭巻らがその先陣を切り、その流れにマキシマム ザ ホルモンなどが続いていった。筋肉少女帯を脱退した大槻ケンヂがNARASAKIらと結成した特撮や、樋口宗孝、山下昌良、横関敦らが結成したBLOOD CIRCUS、元桜っ子クラブのANZA率いるHEAD PHONES PRESIDENTなども、この新しい潮流を受けて誕生したものである。この新世代は1980~1990年代のジャパニーズ・メタル・バンドとの繋がりはほぼ皆無に等しかったものの、俳優でミュージシャンの押尾学が結成したラップ・メタル/ニュー・メタル・バンドLIVの2ndアルバムにはLOUDNESSの山下昌良がゲスト参加するなど、新旧メタル・アクト同士の交流も一部ではあった。, また、その一方でストリートカルチャーやヒップホップ要素なども盛り込んだSUNS OWLやBAT CAVE、SURVIVEなどがシーンに登場した。, 1990年代からのアニメ・ゲームなどサブカルチャーとメタル業界の関係は2000年代に入ってもさらに発展が続いている。現在ではその影響はアニメのみならず特撮作品にも幅広く浸透しており、これら分野でジャパメタ分野でベテラン・中堅格として知名度を持つボーカリストが起用されるケースがしばしば見られる。, 他方では、この時期、日本国内においてもメタル氷河期以前からメジャーシーンで活動していたミュージシャンについてはその多くが中高年の域に入ってきており、その加齢と共にガンなどの大病を患っての長期療養や訃報などの情報が聞かれるようにもなってきた。とりわけ2008年11月、LAZY・LOUDNESSなどでジャパメタシーンを支え続けた功労者の1人である樋口宗孝が49歳で肝細胞癌により死去した際には、その衝撃はメタルのみならず幅広い音楽ジャンルに及んだ。, 2000年代以降にデビューし、目立った活動をした主なバンド、アーティストには陰陽座、GALNERYUS、Cloud Nine、夜叉、BLOOD STAIN CHILD等がいる。, しかし、それらの大半はセールス・興行という観点で成功とは言いがたい、あるいは一応成功しているにしてもそこから伸び悩む状況に終始しているのが実情である。日本産ヘヴィメタルバンドのCDが売れず観客動員数も少ない背景として、当時のライブハウスの関係者は「バンド側が“自分達の音楽がわかってくれる人にだけ”やっている」「外の社会にそういう閉鎖的な見方でやっているから、結局自分達も閉鎖的なカテゴライズされた世界に入ってしまっている」と分析し[51]、ある大手レコード店の店長は、メタルのCDが国に関係なく売り上げが厳しいことを踏まえて、洋楽は純度の高いメタルは受け入れられているが邦楽は純度が高いと受け入れられない、陰陽座やSEX MACHINEGUNSの様な他の要素が入ったバンドは成功していると分析し「80年代のジャパメタのカッコ良かったエッセンスを受け継いでいるのはヴィジュアル系だと思うんですよね。視覚的なところ、フレージングひとつにしてもね。実際にメタルをやっている人はそこをないがしろにしているような気がします」とも語っている[52]。, 2006年には、DIR EN GREYが海外進出し[53]、日本のメタルバンドとして海外では 18日、長瀬智也が22日スタートの主演ドラマ「俺の家の話」の会見に出席した。レスラー役の肉体づくりのため12~13キロ、体重を増やしたという。 !っていうくらい お薦めのバンド、アーティストがあれば教えて下さい☆ ジャンルはかなり幅広く聴 … 毎年どんどん人気度が上昇しているのがデスボイス、シャウトの歌声と激しいロック曲! 3月には、日本武道館で単独公演を行う。 これが 平均年齢14.7歳 での開催ということで、 女性最年少記録 となった。 2014年7月より、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ、カナダ、日本を巡る初の ワールドツアー を開始。 このカテゴリには 233 ページが含まれており、そのうち以下の 200 ページを表示しています。 (前のページ) (次のページ) * ハードロック&ヘビメタおすすめ邦楽ランキング2017!日本で人気! このブログでもハードロック&ヘビメタのおすすめを取り上げていきたいと思います。 2017年もベテランから若手アーティストまで、さまざまなメタル・バンドがシーンを盛り上げています。 世界の音楽シーンを席巻しながらも、国内メディアでは黙殺されてきた"世界で最も知られる日本のバンド"Boris。その知られざる実態に迫る! 日本のみならず世界中に熱いファンを持っており、80年代中盤に海外進出しアルバムがビルボードでtop100に入ったり、モトリー・クルーの前座ではあるものの、日本人アーティストとして初めて、「マディソン・スクエア・ガーデン(msg)」のステージに立つという快挙も成し遂げました。 歴史に名を残す!. あの叫び声のような、悪魔のような歌声がかっこいい! Breaking News】ヘビメタ ... ゴーン被告の逃亡に協力した疑いの親子 米最高裁が日本 ... 女性記者を恫喝 副報道官が辞任 12. 2018年11月21日水曜日現在、日本のメンバー全員が女性のロックバンド(ガールズバンド)4組が、それぞれヨーロッパをツアー中です。band-maid、bridear、lovebites、mutant monster(アルファベット順)の4バンドです。(band-maidはアメリカ西海岸から欧州への転戦です。 また、2003年にメジャーデビューしたムックも2005年にドイツで開催されたメタルフェスヴァッケン・オープン・エア への出場、2008年の「Taste of Chaos」でAvenged Sevenfold、Bullet For My Valentine、Atreyu、As I Lay Dyingなどのバンドと共演を果たすなど、海外進出を行った。他にも2004年結成のラウドロック、オルタナティブ・メタル、メタルコア 等にダークさや美麗な歌メロを取り入れ、後にLOUDNESSや44MAGNUMやDEAD ENDなどの大御所と対バンをしたり、ラウドロック勢と盛んに交流をしながら全欧デビューも果たしたlynch.や同じく2004年結成でニューメタル、ミクスチャー色が濃くヴァッケン・オープン・エアに出場したり海外ツアーも行ったギルガメッシュ、1999年結成のインダストリアル・メタル、ゴシックメタルの要素が強いD'espairsRayもヴァッケン・オープン・エアに出場したり実力のあるバンドが存在している。, 1992年から活動を続けるドゥームメタルバンドBORISは、2005年にサザンロード・レコーズ(日本ではDiwphalanx Records)からアルバム『PINK』をリリースし、全世界で5万枚のセールスを記録[54]、ピッチフォーク・メディアのTop 50 Albums of 2006では9位を獲得した[55]。また、2008年にはアルバム『Smile』の先行シングル「Statement」がビルボードのシングルチャートで初登場23位にランクイン[56]、アルバム『Smile』もビルボードのトップ・ヒートシーカーズで20位を獲得している[57]。2007年ごろからは、ポーティスヘッド、フレーミング・リップス、ペイヴメント、ナイン・インチ・ネイルズらとライブで共演を果たしている[56]。, 2000年代後半にはVersailles、元Galneryusのメンバーが在籍するDELUHI、現「BURRN!」編集長の広瀬和生が高く評価を与えていたNoGoD等が音楽雑誌やネット上で注目を集めることとなった。サム・ダン監督のドキュメンタリー映画「グローバル・メタル」でマーティ・フリードマンがヴィジュアル系のファンとヘヴィメタルファン同士の対立の激しさを証言しているように[注釈 15]、ひと度ヴィジュアル系として認知されたバンドについてはその後に国産メタル以上に純度の高いヘヴィメタルを演奏しても認めない風潮があり、同映画でインタビューを受けたSighの川嶋未来はサム・ダンの「ヴィジュアル系がメタルではないと思う理由は?」との質問に「メタルがクールだから、それが答えだ」と答えている[注釈 16]。, その他、音楽ライターの土屋京輔は上記のバンドだけでなくマキシマム・ザ・ホルモン、9mm Parabellum Bullet、FACTのようなバンドも新世代のメタルバンドとして高く評価している。, かつてはSHOW-YAに代表された女性ボーカルのメタルバンドや女性メタル系シンガーについては、2000年代に入ってからはヘッド・フォン・プレジデント、HIGH and MIGHTY COLOR、LIV MOONなどの若手・中堅世代が登場している。また、いとうかなこ、栗林みな実、中野愛子の様にそもそもアダルトゲーム主題歌やアニメソングなどのサブカルチャーの分野から表舞台に登場し、周囲のメタル系ミュージシャンからHR/HMに近い様式の楽曲の提供を数多く受けているシンガーも見られる。, 2008年にはSHOW-YAを中心とした女性ロッカーのためのイベント「NAONのYAON」の復活開催が行われ、かつての出演者以外にも新たに相川七瀬、長澤奈央らが出演し[58]、一時休止後の2013年には平野綾、中川翔子らが出演[59]するなど、HR/HM系の内外から幅広くミュージシャン、女優、シンガーが集まり、以降も継続的に開催されている。, 2000年代より台頭してきたヴィジュアル系ヘヴィメタルバンドのうち、DELUHIが2011年4月1日のエイプリルフールの日に解散を宣言。2000年代後半に同人メタルシーンで注目を集めていたDragon Guardian、2010年にはガールズバンド「Aldious」、2011年には女性ドラマーにパーカッションを加えた6人組バンドEach Of The Daysが海外デビュー、また女性ボーカルを擁するLIGHT BRINGER、FEEL SO BADのギタリストである倉田冬樹プロデュースのUNDER FORESTがデビューしている。変わったところではアイドルグループさくら学院重音部所属のダンスユニットで「アイドルとメタルの融合」「カワイイメタル」[60]をうたった「BABYMETAL」が海外で注目を集める他、[61]BiSが「IDOL」をリリースするなど女性Voを擁したメタルバンドやグループの活躍が目立っている。 また、メタル系バンドとして初めてNHK紅白歌合戦』に選出され「白い奇蹟」を披露したが、「白い奇蹟」はメタル・ナンバーではなくバラード・ナンバーである。, 他方で、この1980年代後半の日本のロックシーンには、バンドブームとイカ天ブームが起こり、そのブームは1990年代初頭まで継続した。バンド・ブームではその後に元AROUGEの橘高文彦が加入することとなる筋肉少女帯や、LAメタル系のハード・ロックンロール・バンドZIGGYらがその恩恵を受け、イカ天からは1970年代初期系和風ハードロックの人間椅子やグラム・ハード・ロックのマルコシアス・ヴァンプらが登場している。, ヘヴィメタルバンドも多分に漏れず、例えば関東ではプロージョン系[注釈 5]や鹿鳴館系[注釈 6]などと主に女性ファンから呼ばれ、どのライヴハウスも女性客で溢れ返った。, この当時、インディーズシーンの牽引役となった主なヘヴィメタルバンドとしては、REACTION、MEPHISTOPHELES、DEAD END、D'ERLANGER、X、CASBAH、HELLEN、DEMENTIA、JURASSIC JADE、JEWEL、MURBAS、UNITED、URGH POLICE、TILT、SNIPER、OUTRAGE、PRESENCE、SYXE、MEIN KAMPF、SAVER TIGER(横須賀)等が「ロッキンf」誌で挙げられている。, この時期のジャパメタの新鋭は、モトリー・クルーなどのLAメタルからの影響を受けたバンド(REACTION、D'ERLANGER、DEAD ENDなど)がいる一方で、メタリカやスレイヤー等のスラッシュ・メタルからの影響を大きく受けたタイプ(OUTRAGE、UNITEDなど)もいるが、前者はその後のヴィジュアル系へと受け継がれていった。その双方の要素を併せ持つXなどのバンドもいたが、DEAD ENDやD'ERLANGERの様にヘヴィメタルからやや離れた音楽性に変化したバンドも存在していた。, これらのバンドで後にメジャーシーンでのデビューまで辿り着けたのはREACTION、DEAD END、X、OUTRAGE、UNITED、TILT、PRESENCE、D'ERLANGERくらいで、特に大きな成功を収めたのはXであるが、デビュー前のXの評価はDEMENTIA、横須賀SAVER TIGERらと共に「関東三大粗大ゴミバンド」などと酷評されていたが、当時DEMENTIAに在籍していた小杉茂によると、この呼び名の名付け親はUNITEDのメンバーではないかと推測している[26]。その他のメジャーデビューに至らずに終わったバンドでも、MURBASには廣瀬洋一、URGE POLICEには吉井和哉といった後に大成功を収める「THE YELLOW MONKEY」のメンバーが在籍していたり、DEMENTIAにはX - LOUDNESS - DTRの沢田泰司や現UNITEDの吉田“HALLY”良文(g)、後にハウリング・ブル・エンターテイメントを立ち上げる小杉茂(Vo、当時のステージネームはGEESS)、現TOKYO YANKEESのU・D・A(Ds)が在籍、JEWELには後にmedia youthやhideのバンドに参加したKIYOSHIが在籍、MEIN KAMPFには後にCRAZEに加入する藤崎賢一やAIONのIZUMIが在籍、HELLENには後に六三四Musashiに加入し、アニメの劇伴などでも活躍する高梨康治、PRESENCEやJACKS'N'JOKERのベーシスト、恩田快人は後にJUDY AND MARYを結成し成功を収めているなど、後年様々な音楽シーンで活躍する人物が在籍していた。, また、MEPHISTOPHELESは1987年に解散しているが、2001年に再結成した際にVAPよりアルバム「METAL ON METAL」でメジャーデビューしている。また、メンバーの一人だった沢井比河流は実父である沢井忠夫の後を継いで沢井箏曲院の筝曲家としても活動を続けている。, Xはメジャーレーベルでのデビューを目指してテレビなどへの積極的なメディア露出を始める。その一方で、Xのリーダー・YOSHIKIは当時の「ロッキンf」や「BANDやろうぜ」等の音楽雑誌編集部に「Xがテレビに出演する理由」という内容のFAXを送り付けた。だが、Xも当初はそのキャラクター的な過激さを期待したバラエティ番組への出演が中心で、実際のところは「ちょっと過激な音楽もできるイロモノ芸人」という扱いであった。Xはもとよりメタル自体がまだ邦楽の中での歴史も浅くビッグヒットも無い、テレビ業界的には“売れ線”ではないジャンルであり、「ロック音楽の中のイロモノ」に過ぎなかったのである。なお、一般的な偏見の大きな元凶となった『天才・たけしの元気が出るテレビ! 全員平成生まれ、蒼山幸子(Vo&Key)沙田瑞紀(G)藤咲佑(Ba)澤村小夜子(Dr)からなるポップでファンタジックな要素とオルタナティブなロックエッセンスを奏でる新世代ガールズロックバンド。 ジャパニーズ・メタルは、1980年代に流行した音楽のジャンルで、日本人によるヘヴィメタルを指す。ジャパメタと略して呼ばれることもある。, ザ・ゴールデン・カップス、ザ・モップス、内田裕也とザ・フラワーズ、パワーハウスなど一部の洋楽志向のグループ・サウンズ・バンドがジミ・ヘンドリックス、クリーム、アニマルズ等の曲をカヴァーしていた。グループ・サウンズのブームも終わりかけた頃(1960年代末)、日本ではニューロックを手掛けるバンドが急増した[要出典]。, 内田裕也のプロデュースによってフラワー・トラベリン・バンドが1970年に結成。ブラック・サバスやキング・クリムゾン等のコピー曲が大半だった1stアルバム『ANYWHERE』(1970年)ののち、バンドは米アトランティック・レーベルと契約を結び、オリエンタリズム溢れるハード・ロックの2nd『SATORI』(1971年)等を発表、日本のハードロック/ヘヴィメタル系バンドで初めて海外でもライブ・ツアーを行っている[1]ミッキーカーチス&サムライは1960年代後期にヨーロッパで活動[2]を行なっているが、このバンドの音楽性はサイケデリック・ロックであって、ハード・ロックではない。しかしながら、海外レーベルの契約とともに活動拠点をカナダに移したことによって日本国内での活動の空白期を作ったことや、そもそもが外来語である英語の歌詞にこだわった彼らに対して、当時の日本が演歌、歌謡曲、フォークソングなど日本語歌詞で情緒に訴えかける音楽が全盛だったことなど、複数の要素が絡み合い、1973年の帰国後間もなくして解散してしまう。, 1970年、ザ・ハプニングス・フォーのクニ河内、内田裕也率いるザ・フラワーズからフラワー・トラベリン・バンドに移行する前の石間秀樹、ジョー山中らは『クニ河内とかれのともだち』名義で、すべて日本語で構成されたアルバム「切狂言」を録音している(発売は、フラワートラベリンバンドのファーストアルバムの発売より後)。, 同年、元ザ・フィンガーズの成毛滋はヴァニラ・クリームを経て、ジプシー・アイズを結成。1971年にはつのだひろや柳ジョージらと共にストロベリー・パス名義で、ジミ・ヘンドリックスやレッド・ツェッペリン、ELP等からの影響が色濃く出たハードロック/プログレ・アルバムを発表。その後、柳に代わり高中正義をベーシストに迎え入れたストロベリー・パスはフライド・エッグへと発展する。成毛は海外でロック・コンサートを観覧した折にロック・サウンドを大音量で鳴らすことの出来るPAシステムの存在を知り、PAシステムを日本国内に持ち込んだ第一人者とされている。, タレントとして活躍する鈴木ヒロミツや井上陽水の初期~中期キャリアの音楽パートナーである星勝らが在籍し、1960年代にグループ・サウンズ・バンドとして活躍したザ・モップスは、1970年代の幕開けとともにレッド・ツェッペリン風のハードロック・バンドへと移行。1971年に発表されたアルバム『御意見無用』に収録された「御意見無用(いいじゃないか)」では、ブリティッシュ・ハード・ロックと阿波踊りのリズムを掛けあわせた和のハードロックを鳴らした。, ヘヴィメタルという観点でいえば、竹田和夫率いるブルース・クリエイションが、「原爆落し」「悪魔と11人の子供達」という曲を1970年にはすでにステージで演奏しており、現在では主に海外においてヘヴィメタルのプロトタイプの1つとして認知されている。1971年には2ndアルバム『悪魔と11人の子供達』と、カルメン・マキとのコラボ・アルバム『カルメン・マキ/ブルース・クリエイション』を発表するが、このアルバムは当時知名度のあったカルメン・マキのおかげもあって好セールスを記録。その後、ブルース・クリエイションは解散するが、のちにメンバーを一部刷新したクリエイションとして再編され、ブルース・ハード・ロック・バンドとしての道を歩むこととなる。クリームのプロデューサーやマウンテンのメンバーであったフェリックス・パッパラルディにその実力が認められたことで、1976年には日・東芝EMI/米・A&Mからマウンテン直系のハード・ロック作『CREATION WITH FELIX PAPPALARDI』がリリースされ、全米20か所にも及ぶライヴ・ツアーへと繋がった。フェリックスとバンドはこの時期に日本武道館公演も敢行している。, 1970年代初期の日本ではハード・ロックが人気がなかったがゆえ、日本のハード・ロック・バンドは不遇な活動を強いられたとする説[要出典]があるが、当時の海外のハード・ロック・バンドの日本での認知度を考えた時、ディープ・パープルの日本公演録音盤『MADE IN JAPAN』(1972年)や、1971年にレッド・ツェッペリンが、1973年にマウンテンが日本武道館公演を行なっている事実等を総合的に判断すると、1970年代の日本国内ではハード・ロックという音楽そのものが不人気だったわけではないことは明らかであり、単に日本のハードロックバンドの一般的な人気が無かっただけの話である。事実、1981年にデビューしたLOUDNESSがデビューコンサートのチケットが完売するまで、当時の音楽業界での認識は「日本のハードロックは売れない」とまで言われていた程であった[3]。, 1973年に結成、1977年にデビューしたLAZY(バンド名は、ディープ・パープルの同名曲に由来する)は、当初、事務所の営業方針でアイドル・バンドとして活動をさせられていたが、コンサート会場では海外のバンドのカヴァー(UFO、TOTOなど)を演奏し、特に高崎晃のギター・プレイについては、当時現役高校生で、しかもアイドルという立場であったにもかかわらず、この時既にコアなロックファンや同業者に注目を集め、KODOMO BANDのうじきつよしは金沢のイベントで過去にLAZYと共演した際にLAZYの演奏技術と音量の大きさに驚き、「実際に見たら嫌になっちゃうくらい音がでかくてね。「高崎は凄いぞ、ヤツは敵だ!」と思った(笑)」とライバル意識を持っていた過去を明かした[4]。後にBURRN!副編集長~ミュージック・ライフ編集長を務めた音楽ライターの増田勇一も学生時代に高崎の演奏技術に衝撃を受けたうちの一人で、当時LAZYが出演したNHKの歌番組『レッツゴーヤング』でマイケル・シェンカー・グループの「Armed and Ready」のカヴァーを演奏した姿を見て衝撃を受けたと述懐している[5]。, この時代の他のハードロック・バンドに関しても言及すると、1970年代初期にはブルース・ヘヴィ・ロックのスピード・グルー&シンキやトゥー・マッチ、プログレ・ハード・ロックのコスモス・ファクトリー、暴走族の支持者が多かったハード・ロックンロールの外道等がいる。中期に入ると、カルメン・マキ&OZ、現在も現役で活動しているBOW WOW、沖縄版ディープ・パープルと言わしめた紫、紫と同じく沖縄のバンドでニワトリの首を切るなど残虐なパフォーマンスを行ったコンディション・グリーンらがデビューを飾り、日本のハード・ロック・シーンが少しずつ盛り上がっていく。, 1970年代が終わりに近づくにつれ、ハード・ロック・ミュージシャンの多くは、ジャズ・フュージョン系のサウンドに流れていった(高中正義や、竹田和夫等)。他にも、歌謡ロックやレゲエのジョー山中、ニューミュージック系のアレンジャーとなった星勝、ブルースマンの柳ジョージ、トランザムを経て萩原健一のバックを務めた石間秀機、ハード・ロックのルーツの1つであるニュー・ロック(サイケ・ロック)を志向していたエイプリル・フールのメンバーだったが、その後アメリカン・ロック風のはっぴいえんどを経てテクノ・ポップ・バンドYMOに関わった細野晴臣など、1970年代の多くのハード・ロッカーが転向を見せた。, 80年代に入ると、ヘヴィメタルが流行を迎える[6]。Sighの川嶋未来は、「80年代当時、ヘヴィメタルは確実にメインストリームに属する音楽であった。クラスメイトにもヘヴィメタル好きは複数いた」と当時を振り返っている[6]。, 1980年、英国でのアイアン・メイデンらを筆頭とするNWOBHMムーヴメントに感化されるようにして、アイドルグループとして活動していたLAZYが「ヘヴィ・メタル宣言」を行い、アルバム「宇宙船地球号」をリリース。しかし、そのLAZYは音楽的方向性を巡り所属事務所やメンバー間の意見の相違が表面化し1981年5月31日に解散となる。これを機に、高崎と樋口宗孝が本格的なヘヴィメタルバンド「LOUDNESS」を結成し、1981年11月にアルバム「誕生前夜」でデビュー、12月17日には浅草国際劇場でデビューコンサートを開く[7]。, LAZY同様、営業面の問題から歌謡曲路線を取らされていたBOW WOWが本来のヘヴィメタルバンドに戻ることを宣言し、1982年 - 1983年には海外のロック・フェスティバル(レディング・フェスティバル)に日本人アーティストとして初めて参加した[8][9][10]。この他では、のちに俳優として活躍するうじきつよし率いる子供ばんども活発なライブ活動をし、各地のイベントの常連となっていた。, 「ヘヴィメタル」の項目でも触れているが、この頃から音楽雑誌の「YOUNG GUITAR」と「ロッキンf」が日本のヘヴィメタルバンドの為にフェスティバル等を開いたりと積極的にヘヴィメタルシーンを盛り上げていた[11]。, 1983年から翌1984年にかけて、関西ではEARTHSHAKER、44MAGNUM、MARINO、RAJAS、X-RAY、MAKE-UP、東京からもBLIZARD、AROUGEなどのヘヴィメタルバンドが次々とデビューを果たす。また、この頃はビーイングがアイドル的な女性メタルシンガーを次々と売り出しており[12]、樋口宗孝のプロデュースで浜田麻里が、高崎晃のプロデュースで本城未沙子がデビュー[13]。それに続いて早川めぐみ、橋本ミユキ(アニメソング歌手の橋本みゆきとは同姓同名の別人)等のイニシャルが「H.M.」(つまりHeavy Metal)の女性シンガーが次々とデビューを飾るが[注釈 1]、長期にわたって継続的に活動したのは浜田だけであった。, 1984年5月27日には「GRAND METAL」が大阪城野外音楽堂で開催され、当時活躍が期待されていた若手バンドが出演した[注釈 2][14]。, LOUDNESSは1983年にはアメリカ、1984年にはヨーロッパを中心にライブ活動を行い、夏には海外へのアピールとしての「DISILLUSION English Version」、ヨーロッパ公演を収めたライブビデオ「EUROBOUNDS」をリリース。翌年、1985年には米アトランティック傘下のアトコ・レーベルと契約し、同年11月9日、「THUNDER IN THE EAST」で世界デビューを果たすが、このアルバムよりプロデューサーとなったマックス・ノーマンの指示により、当時米国で勢いづいていたモトリー・クルーやクワイエット・ライオット等に代表されるLAメタルを意識したサウンドに変化している[15]。また、海外でのアルバムリリース前にはモトリー・クルーの前座としてツアーに動向。8月14日には前座という形ではあるが、日本人ロックバンドで初めてマディソン・スクエア・ガーデンの舞台に立っている[16]。これに続いて、BOW WOWがメンバーチェンジを機にバンド名をVOW WOWに改め、LOUDNESSと同様に海外での活動を展開してゆく。, 東京で結成されたANTHEMは当初はNWOBHMの影響を単純に受けたバンドであったが、福田洋也加入後にACCEPTやMANOWARに代表されるパワーメタル的な音楽的要素を取り入れて先鋭化し[17]、SABBRABELLSはBlack SabbathやAlice Cooperを彷彿とさせるシアトリカルかつ悪魔崇拝的なステージングとヘヴィなサウンドで、北海道から登場したFLATBACKERはヴェノムと日本のハードコア・パンクを混ぜたような過激なサウンドと放送コードギリギリの過激な歌詞で日本のヘヴィメタルシーンを盛り上げていった[18]。1984年にはインディーズながらANTHEMやSABBRABELLSを始めとした関東のバンド、SNIPERといった名古屋のバンドが集まり、オムニバスアルバム「HEAVY METAL FORCE Vol.1」を木箱入りでリリースしたりと積極的なアピールを展開する。その後、ANTHEMとFLATBACKERは1985年に、SABBLABELLSは1986年にメジャーデビューを果たす。, 1985年8月にシングル「素敵にダンシング」でデビューしたSHOW-YAは、メンバー全員が女性という当時としては異例のバンドであった。初期は秋元康が楽曲を手掛けているなどいわゆる“歌謡メタル”的なテイストを多分に含んでいたが、徐々にサウンドのハードさが増していき、1989年に昭和シェル石油のCMタイアップ曲となった「限界LOVERS」が大ヒットし日本のヘヴィメタル界に新風を巻き起こす。また、SHOW-YAは1987年から年に1回の割合で女性ロッカーだけを集めたロックイベント「NAONのYAON」を開催し、女性ロッカーの地位向上に大きく貢献する。, 聖飢魔IIがメジャーシーンに登場したのもこの1985年のことである。元々は早稲田大学のフォークソングクラブに発祥の由来を持つバンドであり、9月にアルバム「聖飢魔II〜悪魔が来たりてヘヴィメタる」でデビューしたが、ヘヴィメタル雑誌の「BURRN!」では0点という評価を受けた。しかしこのアルバムの評価が0点だからと言って単純に駄作と切って捨てられる様なものではなく、BURRN!編集部の藤木昌生はこのアルバムを高く評価している。とはいえ、聖飢魔IIはBURRN!の0点のレビューが1つのきっかけとなり既存のメタルファンよりもJ-POPファンに訴求の中心軸を置く販売戦略を選び、結果的に音楽業界で一定の成功を掴み取ってゆくこととなる。, 同年10月10日、「JAPAN HEAVY METAL FESTIVAL」が東京の日比谷野外音楽堂で開催された。これには新進気鋭のANTHEM、FLATBACKER、聖飢魔II、RAJAS、ベテラン格になっていたMARINO、海外からの招待ゲストとしてスウェーデンのシルヴァー・マウンテンが出演。当時のYOUNG GUITAR誌の記事にはMARINOが登場した頃に会場が盛り下がり始め、デビューしたばかりのANTHEMやFLATBACKERなどの新しい血を求めたファンが圧倒的に多かったと記載している[19]。実際、バンドとしての全盛期を過ぎていたMARINOはこの1985年、X-RAYは翌1986年にレコード会社から契約を打ち切られ、解散の道を選ばざるを得ない状況にまで追い込まれている。, 1980年代後半は、LOUDNESS、VOW WOWに続いてANTHEMがLAでライブを行い、1987年にFLATBACKERが『E・Z・O』へ名前も音楽性も変えてジーン・シモンズのプロデュースによるアルバム『E・Z・O』で世界デビューし、全米チャート入りを果たした[20]。同年にはVOW WOWの楽曲「DON'T LEAVE ME NOW」が全英シングルチャートのトップ100に3週チャート・インした[21]。そして、聖飢魔IIを脱退したギタリスト大橋隆志も渡米後にアメリカ人と結成した日米混成バンド「Cats In Boots」で1989年に世界デビューを果たすなど、日本発のHR/HMシーンが開花し、ひとつの頂点を極めようとしていた時期であった。, この時期、日本国内のメタルシーンは徐々に失速の兆しを見せていた。1987年、レコード会社移籍をきっかけに44MAGNUMが「ヘヴィメタルなんかもう古い」という理由で「ポストBOØWY」[注釈 3] とも呼べるポップなロック路線への転換を行う[22]。だが、それまでのファンから猛反発を喰らい人気は急降下、結局はバンドそのものが方向性を見失い、1988年に打ち込みの導入に反発したドラムの宮脇“JOE”知史が脱退、その後立て直せぬままに翌1989年解散。MAKE-UPも1986年にテレビアニメ『聖闘士星矢』の主題歌「ペガサス幻想」でヒットを飛ばしたものの翌年解散。その一方、この時期には元LAZYの影山ヒロノブがアニメ・特撮の主題歌を数多く手掛ける様になるなど、少なからぬメタル系ミュージシャンが自身の生活と芸能活動の維持の為に、メタル系以外への芸域の拡大を模索し始めていた。影山は1990年代以降、一部の楽曲でゴールド・ディスクを獲得したりミリオンヒットを飛ばすなど[23]、アニメソングの分野で兄貴分としてのポジションを確立しジャンルの牽引者の1人となる。ヘヴィメタル・クイーンと呼ばれた浜田麻里も1989年に「Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。」のリリースを機に脱ヘヴィメタルを宣言[注釈 4]し、転じたJ-POPシーンでブレイクし、1990年代前半まで安定した人気を保つ事となる。, 他方で、ANTHEMは1987年にボーカル坂本英三が脱退し後任に森川之雄が加入、またこの時期から音楽性の幅が広がっていったにも関わらず人気は鈍化傾向で、興行面という意味においての苦戦が続いていた。海外に展開していたFLATBACKER改めE・Z・Oも活動順調とは言い難く、アメリカで苦戦を続けるメンバーは、所属事務所の戦略により隈取を施した“忍者メタル”などという一種のキャラクター路線まで模索を余儀なくされていた。同じく海外進出していたLOUDNESSは1989年にボーカリスト二井原実を解雇し、アメリカ人のマイク・ヴェセーラを起用した。ボーカルが交替したLOUDNESSはアルバム「SOLDIER OF FORTUNE」をリリースする。このアルバムは日本国内のみならずアメリカ市場においてもセールス的に失敗。ヴェセーラ在籍時の全米ツアーも1度だけと苦境に立たされる事となった[25]。, この1989年には、聖飢魔IIが極悪集大成盤(ベストアルバム)「WORST」を発布し、メタル系バンドとしては初めてオリコンチャートの1位を記録した。